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| 藤井斉成会 有隣館(有隣館) (京都市左京区) Yurin-kan |
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| 有隣館 | 有隣館 |
![]() ![]() ![]() 玄関 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 狛獅子 ![]() 京都市の説明銘板 ![]() バルコニー ![]() バルコニー ![]() ![]() 東側、3階部分 ![]() 東側、朱塗りの八角堂 ![]() 東側、仁王門通 ![]() 西門 ![]() 第一館背後の建物群、左端に第二館 ![]() 【参照】「仁王門」の通り名 |
岡崎の琵琶湖疏水、仁王門通に面して有鄰館(ゆうりん-かん)が建つ。正式には藤井斉成会(ふじい-さいせいかい)有鄰館という。「徳は孤ならず、必ず鄰あり」(『論語』)より「有鄰館」と名づけられた。建物は近代的な民間美術館として、現存最古級の建築遺構とされている。 実業家・政治家・藤井善助が収集した中国の古美術工芸品を展示し、学術資料の収蔵・展示をするために建てられた美術館になる。現在は、公益財団法人・藤井斉成会が管理・運営している。 ◆歴史年表 近代、1926年、10月29日、施主・藤井善助、設計・武田五一により有隣館第一館が建てられた。11月、開館した。 1928年、第二館・収蔵庫が建てられる。 現代、1985年、6月1日、京都市の登録有形文化財に登録された。 2000年、2月15日、第二館・収蔵庫は国登録有形文化財に登録された。 2009年、12月16日、京都府より公益財団法人に認定された。 ◆藤井 善助 近代の実業家・政治家・藤井 善助(ふじい-ぜんすけ、1873-1943)。男性。前名は善三郎、号は静堂。滋賀県の生まれ。父・絹織物洋服生地製造販売業・藤井周次(3代・善助)の長男。兄・同彦四郞。1903年、家督を相続し4代・善助に改名した。1887年、京都第一商業学校(現・京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業し、菁々塾に学ぶ。朝鮮・中国・欧米など各地を巡遊視察した。上海の東亜同文書院大学、上海日清貿易研究所で学ぶ。京都の自店で働く。1901年、京都倉庫監査役、大阪金巾(かなきん)製織会社監査役に就任した。以後、藤井紡績(後の藤井)創業者になり、江商(のちの兼松工商)、山陽紡績などの創立に加わり役員を務める。ほか、天満織物、日本メリヤス、日本絹織、日本ビロード、三菱製革、琵琶湖鐵道汽船、湖南鉄道、大津電車軌道、比叡鉄道、京都電燈、島津製作所、大森機械製作所、日本格魯謨(マグネシム)、日新電機、日本共立生命保険、京都信託、関西倉庫、近江倉庫土地、琵琶湖ホテルなどの取締役社長、重役などを務めた。1904年、生地の北五個荘村長に就任する。神崎郡立実業学校などを創立した。滋賀県農会会長も務める。1908年、第10回衆議院議員総選挙で滋賀県郡部から憲政本党所属で出馬し初当選した。ローマで開催の第17回列国会議同盟会議に派遣された。1915年、第12回総選挙(立憲国民党)、1917年、第13回総選挙(立憲国民党)でも再選される。衆議院議員を通算3期務めている。この間、憲政本党幹事、立憲国民党常議員などを務めた。中国古美術骨董収集家としても知られ、1926年、収集品を自邸内で公開した。その後、藤井斉成会有鄰館を設け一般公開した。 71歳。 犬養毅の薫陶を受け、中国文化への認識を深めた。育英事業、社会事業、司法保護事業などに尽力し、滋賀県自助会々長として免(免)囚保護事業に関わる。私立の天体観測所なども設立した。勲四等瑞宝章に敍せられた。 ◆武田 五一 近代の建築家・建築学者・武田 五一(たけだ-ごいち、1872-1938)。男性。備後福山(広島県)の生まれ。父・備後福山藩士・司法官・平之助(直行)、母・八重の第5子。父の赴任に従い、神戸、姫路、岐阜、高知に住む。1888年、京都第三高等中学校補充科に入学した。1894年、京都第三高等中学校本科を卒業し、京都帝国大学工科大学造家学科に入学する。1897年、帝国大学(東京帝国大学)造家学科(建築学科)を首席卒業し、同大学院に進学した。1899年、大学院中退後、東京帝大助教授に任じられる。東京高等師範学校講師嘱託、東京美術学校教官になった。1901年-1903年、文部省より命ぜられ欧州留学する。ロンドン・カムデン美術学校で学び、各地を巡る。アール・ヌーボー、セセッションなどを体験する。1903年、帰国後、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科教授になる。1904年、京都府技師を兼任し、平等院鳳凰堂・鹿苑寺金閣の保存に関わる。1907年、東京・福島行信邸で、日本初のウィーン・セセッションの様式を試みた。アール・ヌーボーの造形を紹介する。1908年、大蔵省臨時建築部技師を兼任し、国会議事堂建築のために欧米視察した。1912年、パナマ太平洋万国博覧会事務取扱嘱託になる。1915年、工学博士学位を取得する。勲四等瑞宝章を受賞した。1916年、法隆寺壁画保存会委員になる。1917年、片岡安らと「関西建築協会」を設立する。1918年、名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)校長に転任した。1920年-1932年、京都帝国大学建築学科創立に伴い教授になる。1925年、大蔵省営繕管財局技師を兼任した。1929年-1931年、京都帝国大学営繕課長事務取扱として学内建築物の造営に関わる。1931年、欧米出張し、19カ国を訪れた。1934年以来、法隆寺大修理工事事務所長を務める。65歳。 「関西建築界の父」といわれた。奈良・京都の古社寺保存修復、橋梁、博覧会場、公園、記念碑、都市計画、街路施設、家具意匠、染色なども手掛けた。主な作品として、旧日本勧業銀行本店(1899) 、日本初のセセッション建築とされる東京・福島邸(1907)、京都府立図書館(1909)、京都・円山公園(1912)、京都・同志社女子大学ジェームス館(1913) 、京都・旧松風嘉定邸(現・五龍閣、1914)、山口県庁舎・県会議事堂(1916) 、大阪・瀧安寺鳳凰閣(1917) 、兵庫・清水寺根本中堂・大講堂・本坊・客殿(1917) 、東京・旧村井吉兵衛邸(現・延暦寺大書院、1919) 、 兵庫・清水寺鐘楼 (1919)、兵庫・光明寺根本本堂(1925) 、 和歌山・高野山大学図書館 (1928)、代表作の東方文化学院京都研究所(1930)、京都・同志社女子大学栄光館(1932) 、鳥取・三朝大橋(1934年) など多数。葵橋、賀茂大橋なども設計した。 ◆寺生 元彦 近代の建築家・寺生 元彦(?-?)。詳細不明。男性。1912年-1925年、藤井有鄰館第2館の前身の建物を設計した。1928年、藤井有鄰館収蔵庫を設計したという。 ◆建築 ◈ 「第一館」(京都市登録有形文化財)は、敷地の北側にある。近代、1926年に武田五一の設計により建てられた。現代、1985年6月1日に京都市の登録有形文化財に登録されている。 玄関は北面し、石段を上がった位置にある。レリーフで装飾されアーチが囲んでいる。全体として外観の装飾は少なく、壁面は平滑な仕上げになっている。3階の屋上には、中国から移築された中国古材の朱塗りの八角堂が載る。屋根は乾隆年間(1736-1795)製の黄釉瓦3万6000枚で葺かれている。瓦葺の屋根庇は中国風になっている。北東の角にバルコニーがある。内部は陳列室の折上格天井の各格間に、東洋風の模様の布を張る。陳列ケースも中国風意匠になる。建物は近代的な民間美術館として現存最古級の建築遺構とされている。 鉄筋コンクリート3階建・地下1階、陸屋根造、建築面積1264㎡。施工は大林組による。 ◈ 「第二館」(国登録有形文化財)は、 第一館の南側にやや離れて建つ。近代、1912年-1925年/大正期(1912-1926)初期に建てられた。設計者は寺生元彦による。当初は、金沢市の横山鉱業部洋館として建築された。大蔵大臣用の宿泊所として利用されていた。1928年に第124代・昭和天皇御大典に際して現在地に移築されている。現代、2000年2月15日に国登録有形文化財に登録された。 明治期のフランス人設計によるルネッサンス風の建築になる。随所にアール・ヌーボ(植物模様、流れるような曲線)様式が見られる。玄関ポーチの屋根形状、内部にセセッション風(幾何学)意匠などが見られる。 木造2階建、鉄板葺、建築面積250㎡ 。 ◈ 「収蔵庫」(国登録有形文化財)は、第一館の南側、第二館との間の西よりに建つ。近代、1928年に第2館と一体のものとして建てられた。設計者は寺生元彦による。現代、2000年2月15日に国登録有形文化財に登録された。 取毀(とりこわし)材を用いて新築され、外壁には同じ仕様の白タイルが張られている。2階は床・棚が設えられている。 木造2階建、瓦葺、建築面積58㎡ 。 ◆文化財 藤井善助が収集した殷から清にいたる中国・東洋美術品7000点を所蔵している。国宝11件、重要文化財9件が含まれる。 ◈『巻第二残巻・紙背双林善慧大士小録』(国宝)は、西晋(せいしん)の杜預(とよ、222-284)が著した春秋経、左氏伝の注釈書『春秋経伝集解』全30巻のうち巻2・巻1の断簡で、後の唐代(618-907)の写本になる。紙背に、平安時代後期、「承暦二年(1078年)」に高野山の僧による書写があったとある。近代、1868年に中国に帰り、50年後に再び渡来した。 ◈絹本淡彩「毛詩大雅蕩之什図(もうしたいが-とうしじゅうず)」(重文)は、南宋時代(1127-1279)の伝・馬和之(ば-かし、?-?)筆で代表作になる。 ◈絹本墨画「秋山蕭寺図(しゅうざん-しょうじず)」(重文)は、北宋時代(960-1127)の伝・許道寧(きょ-どうねい、?-?)筆による。北宋中期の山水画になる。 ◈紙本墨画「幽竹枯槎図(ゆうちく-こさず)」(重文)は、金時代(1115-1234)の王庭筠(おう-ていいん、1151-1202)筆による。庭筠の唯一の画になる。枯槎とは、枯れ枝を意味する。 ◈銅造「菩薩立像」(重文)は、五胡十六国時代(304頃-439)作による。 ◈石造「金剛力士立像(天龍山石窟第八洞仁王立像)」2躯(重文)は、山西省太原の旧天龍山石窟仏であり、隋時代(581-618)、584年作による。石窟門口の両脇にあった。渡来仏の中で最も背が高い。 ◈石造「菩薩及両脇侍立像(三尊菩薩立像、河清三年銘・大石仏)」3躯(重文) は、北斉(ほくせい)時代(550-577)、564年作による。 ◈石造「弥勒仏・両脇侍立像 」3躯(重文) は、東魏時代(534-550)、535年作による。アルカイック・スマイル(口もとに微笑を浮かべた表情)を見せる。 ◈「張即之書李伯嘉墓誌銘」(重文)は、南宋時代(1127-1279)のものになる。書家・張即之(ちょう-そくし、1186-1266)書により隷書体で1200字ある。処刑された人の墓誌になる。 なお、「刑徒塼(けいと-せん)」もある。後漢時代(25-220)の権力者により、重労働に徴集された受刑者・奴隷が死亡した際に、中国古建築の煉瓦「磚」の端くれに、配属・氏名・命日などを簡略に刻した。正式な漢碑の隷書体ではなく、当時の通行体文字で刻まれ、洛陽共同墓地に亡骸とともに埋められた。 ◈「朝鮮通信使関係資料」(重文)がある。「朝鮮国書」2通、江戸時代の「徳川将軍返書控(金銀箔料紙)」6通、「朝鮮国東莱府使書契」1通、 「附 朝鮮国礼曹参議書契」3通になる。 朝鮮通信使は、朝鮮国王が日本に派遣した外交使節団であり、江戸時代には主に将軍の代替わりの際などに来日した。江戸時代前期、1607年-江戸時代後期、1811年まで12回を数えた。 ◈「甲骨文」は占いに用いられた殷代(前16世紀頃 - 前1046)の文字になる。最も古い漢字といわれる。亀の甲、牛の肩胛(けんこう)骨に刻まれ、3300年前のものになる。1899年に河南安陽の殷墟から発見された。刻された王の名前より、「商(しょう)」という国家が殷に都(みやこ)したことが判明した。 大きな邑(ゆう)の商が、他の邑を服属させて作った国家が殷になる。現代中国では殷を「商」と呼ぶ。 ◈「金文(きんぶん)」という鋳出された文字は、殷代(前16世紀頃 - 前1046)の青銅器(銅と錫の合金鋳造)になる。文字というより氏族標識であり、西周(前1045 -前771)以降には長文が見られる。 ◈「卵形容器」は、王墓より出土した。青銅器製で、この器形は世界唯一という。 ◈「古印」収集は3000個に及ぶ。 「日庚都萃車馬(じっこうとすいしゃば)」は、山東省出土で戦国時代(前5世紀-前221)の巨大な印になる。 「流金龍鈕乾隆帝印」は、 清の第6代皇帝 ・乾隆帝(けんりゅう-てい、1711-1799)が使用した御璽(印)になる。 ◈陶磁器では、完全にそろった唐三彩の「馬・胡人」、「魌頭(きとう)・神将俑」がある。 万暦年間(1573-1620)の衣服を上から掛けて香を焚きしめる「赤絵薫炉」がある。 皇帝用の極上の粉彩「古月軒の梅花碗」などがある。 ◈清の第6代皇帝・乾隆帝(けんりゅう-てい、1711-1799)の「龍袍(りゅうほう)」は、公務で着用した上着になる。五爪の九龍文を極小の真珠と珊瑚で密に縫いつけている。 ◈「夾帯(きょう/けふ-たい)衣」は、『四書五経』・注釈であり、全70万字を楷書細字で表裏全面に書きつらねている。官僚登用の科挙試験で不正行為に用いたと思われ、不合格だったとみられている。丈134㎝。 ◈草書「李白詩巻」は、北宋(960- 1127)の書の第一人者・黄庭堅(おう-ていけん、1045- 1105)の作品になる。 ◈「春郊閲駿図」は、乾隆九年(1744)に、郎世寧(ろう-せいねい、1688-1766)筆による。乾隆帝(1711-1799)騎馬像になる。郎は本名をジュゼッペ・カスティリオーネといい、イタリア人でイエズス会宣教師として中国に渡り宮廷画家になった。 ◈石造「 狻猊(さんげい、獅子)」1対は、六朝時代(222- 589)のものになる。 ◈石造「菩薩頭部」は、山西省北部の雲崗(ウンカウ/うんこう)第19窟にあった。 ◈「壁画」は、明時代(1368-1644)の寺院の壁画になる。 ◈「ヌルハチ螺鈿寝台」は、清朝初代皇帝・ヌルハチ(奴爾哈齊/奴兒哈赤、1559-1626)が用いた箱状のベットで、すべての面内外に螺鈿の文様が入る。 ◈「南詔国観音応化図」は、五代十国時代(907-960)作になる。 ◈「白岳紀遊図」は、明時代(1368-1644)、1554年に、陸治(りくち、1496-1576)筆による。 ◈「花鳥図」は、明時代(1368-1644)に、陳洪綬(ちん-こうじゅ、1598- 1652)筆による。 ◈「菖蒲石寿図」は清時代(1644-1912)、1653年に、王時敏 (おう-じびん、1592-1680)筆による。 ◈「楊柳観音像」は、高麗王朝(918-1392)作になる。 ◈「聖徳太子孝養図」は、鎌倉時代作になる。 ◆展示 ◈ 第一館では、中国の殷(商)代-清代の石仏・木彫仏・陶磁器・青銅器・書画などの美術工芸品を展示している。 ◈ 第二館では、日本の書画、藤原時代(平安時代中期-後期)の木彫仏を展示している。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊年間行事(拝観)は中止、日時・場所・内容変更の場合があります。 ❊参考文献・資料 京都市の説明銘板、ウェブサイト「国指定文化財などデータベース-文化庁」、ウェブサイト「文化遺産オンライン-文化庁」、ウェブサイト「日本研究のための歴史情報 『人事興信録』データベース 」、ウェブサイト「京都府国登録文化財所有者の会(京都登文会)」、ウェブサイト「京の博物館-京博連だよりvol.44 2009年9月」、ウェブサイト「 建築パース.com 」、ウェブサイト「コトバンク」 |