円福寺 (京都府久御山町)  
Empuku-ji Temple
円福寺 円福寺
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本堂



 久御山町田井荒見の円福寺(えんぷく-じ)は、山号を功徳山という。竹久夢二がたびたび逗留し、絵を絵を描いたという。
 浄土宗、本尊は阿弥陀如来を安置する。
◆歴史年表 平安時代、824年、弘法大師により創建されたという。当初は真言宗だった。(寺伝) 
 江戸時代、1624年、大洪水で流失している。
 1625年、竜諫により中興されたという。阿弥陀如来を本尊にした。専念寺の末寺だったともいう。(「田井村神社明細帳」、1775)。
 1747年、8月、木津川の洪水により堂宇は流失したという。(『佐山村郷土誌』)
 その後、再建された。
 近代、1916年-1928年、近代の画家・竹久夢二がたびたび逗留した。
 現代、1995年、現在の本堂・書院が再建されている。
◆竜諫 江戸時代前期の浄土宗の僧・竜諫(?-?)。詳細不明。男性。1625年、円福寺を中興した。
◆釜屋了貫 近代の浄土宗の僧・釜屋了貫(?-?)。詳細不明。男性。円福寺第21世になる。
 竹久夢二と古くから親交した。
◆竹久夢二 近代の画家・詩人・竹久夢二(たけひさ-ゆめじ、1884-1934)。男性。名は茂次郎(もじろう)。岡山県の生まれ。父・酒の醸造取次販売業・菊蔵、母・也須能の次男。1899年、4月、叔父・竹久才五郎を頼り、神戸中学校に入学する。在学8カ月で家の都合により中退し、帰郷した。1900年、 一家で福岡県遠賀郡(現・北九州市)に転籍する。1901年、夏、放蕩の父に反発し、家出し上京した。1902年、9月、早稲田実業学校に入学する。1905年、早稲田実業本科3年を卒業し、4月、早稲田実業専攻科に進む。「平民社」の荒畑寒村らと共同生活をした。「白馬会洋画研究所」に通う。6月、「中学世界」に応募したコマ絵が第一賞に入選した。「ハガキ文学」に応募の図案も入賞し、7月、学校を中退する。東京日日新聞(主宰・島村抱月)、「早稲田文学」でも活躍した。1906年、早稲田文学社の「少年文庫」(編集・小川未明)の挿絵を担当する。1907年、1月、岸たまき(他万喜)と結婚し、後にたまきをモデルに「夢二式美人」が生まれる。寒村の推薦で、日刊「平民新聞」に風刺のコマ絵・川柳などを掲載した。4月、読売新聞社に入社し、時事スケッチを掲載する。1908年、2月、長男・虹之助が誕生した。1909年、6月、中央バプテスト教会の牧師・吉川亀により洗礼を受けた。9月、たまきと協議離婚する。12月、『夢二画集 春の巻』を出版した。1910年、1月、たまきと偶然に会い、再び同棲する。1911年、5月、次男・不二彦が生まれる。1912年、 11月-12月、京都府立図書館(左京区)で、「第1回夢二作品展覧会」を開催した。1913年、11月、詩画集『どんたく』(『宵待草』も収録)が出版される。1914年、4月、劇作家・童謡作家・秋田雨雀の「埋れた春」の舞台装置背景を描く。10月、日本橋呉服町に趣味の店「港屋」を開店し、商業デザインも手がける。たまきが店を切り盛りし、自作の絵はがき・千代紙・半襟なども売った。 1915年、 4月、婦人乃友社の「新少女」を創刊し、編集局絵画主任になる。5月、笠井彦乃(ひこの)と知り合い、妻・たまきと別れる。1916年、2月、三男・草一が生まれる。4月、雨雀、ロシアの盲人詩人・エロシェンコと水戸方面に公演旅行する。セノオ音楽出版社の初めての「セノウ楽譜」を装幀した。11月、一人で京都に移った。1917年、2月、京都の知人の紹介で二年坂に住む。次男・不二彦と生活を始めた。4月、不二彦と高台寺(東山区)南門鳥居脇に住む。5月、装丁した「セノオ楽譜」の『宵待草』(作詞・竹久夢二、作曲・多忠亮)が出版され大流行した。6月、彦乃と同居する。8月、不二彦、彦乃を伴い、金沢で「夢二抒情小品展」を開く。1918年、4月、京都府立図書館で、「第2回竹久夢二抒情画展覧会」が開催された。8月、長崎に遊ぶ。9月、楽譜「宵待草」が出版され全国流布した。11月、東京に帰り、本郷区菊坂の菊富士ホテルに移る。彦乃への恋歌集『山へよする』を刊行した。1919年、3月、お葉(永井兼代/佐々木 カネヨ)が新しいモデルになる。1921年、8月、お葉と渋谷に所帯を持つ。1923年、9月、関東大震災に遭った。起こした工房「どんたく図案社」も震災により頓挫した。震災スケッチ『東京災難画信』を都新聞に連載する。1924年、年末、「少年山荘(山帰来荘)」(東京府下松沢村松原)を建てた。1925年、5月、著書『長るゝまゝに』の装幀をし、作家・山田順子と知り合う。お葉が去り、7月、順子とも別れた。1927年、5月-9月、自伝絵画小説『出帆』を都新聞に連載した。1928年、伊香保に逗留した。1930年、2月、銀座資生堂で「雛によする展覧会」を開く。5月、榛名湖畔にアトリエ建設が始まる。工芸運動の榛名山美術研究所の建設を宣言した。後に資金難により頓挫する。1931年、5月、渡米した。9月、カーメルのセブンアーツギャラリーでの展覧会は不振に終わる。1932年、9月、渡欧する。10月、ドイツのハンブルグに着き欧州各地を巡る。1933年、9月、帰国した。11月、台湾に行き、体調を悪化させ帰国する。1934年、1月、長野県の富士見高原療養所に入る。9月、肺結核により死亡した。代表作『長崎十二景』、『女十題』 、『黄八丈』など。51歳。
 画家、詩人、デザイナーとして活躍した。日本画、油絵、水彩画、木版画、詩画、詩歌集などで表現した。生活美術、商業美術の先駆者になる。藤島武二、青木繁、鏑木清方の美人画に影響を受ける。独特の美人画は「夢二式」と呼ばれた。作品は本・雑誌装丁、楽譜、蔵書票、ぽち袋、千代紙、手拭、人形などにも及んだ。当初、画壇からは無視され、戦後に再評価を得ている。
 小説家・有島生馬らにより雑司ヶ谷墓地(東京都)に埋葬された。
◆建築 本堂は、1995年に再建された。書院を併設している。入母屋造。
◆夢二・釜屋了貫 竹久夢二(1884-1934)は、円福寺21世・釜屋了貫(?-?)とは、神奈川県逗子で知り合っている。了貫の修行時代を含め家族的な交友をしていたという。
 近代、1916年-1928年の間に、夢二は了貫を頼り、円福寺に度々逗留している。寺の庫裏/客間を画室として絵筆を振るったという。
 1929年に、夢二は群馬県高崎、前橋を講演・催しで訪れている。この頃、小説家・川端康成(1899-1972)は伊香保で夢二に逢っている。この頃の夢二は厭世的になっており、伊香保にはあしげく通っていた。夢二は僧形姿に利久下駄のいでたちであり、一同を大いに驚かせたという。
 夢二は僧衣を了貫に借りている。同年4月12日付の夢二から了貫宛ての手紙には、経本・墨染めの衣を送ってほしいと依頼している。「榛名湖畔の信州越後かみつけの山々を見はらす山腹の土地に画室(或は方丈)建設のことかない、山にこもってみたくなり候」と記されていた。
 なお近年、久御山時代に夢二が描いた水墨画など11点が、田井などの旧家で見つかっている。
◆年間行事 年始挨拶回り(1月3日)、春彼岸法要(3月彼岸)、御忌法要(4月22日)、七日盆回向(8月7日)、盆施餓鬼法要(8月16日)、秋彼岸法要(9月彼岸)、十夜法要(11月18日)。


*年間行事(拝観)は中止、日時・場所・内容変更の場合があります。
年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『京都府の地名』、ウェブサイト「久御山町」、ウェブサイト「週報 夢二と台湾2023」、ウェブサイト「コトバンク」


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