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常高寺・今出川菊亭右大臣鳥羽殿跡 (京都市伏見区) Joko-ji Temple |
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常高寺・今出川菊亭右大臣鳥羽殿跡 | 常高寺・今出川菊亭右大臣鳥羽殿跡 |
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![]() ![]() ![]() 今出川菊亭右大臣鳥羽殿跡」の石標 ![]() ![]() 山門 ![]() 山門 ![]() ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() ![]() 「菊亭右大臣経季公夫人 高樹院殿建立之寺」 ![]() 鐘楼 ![]() 鐘楼 ![]() ![]() 庭園 ![]() 灯籠 ![]() ![]() ![]() 歴代の墓 |
下鳥羽の鴨川の西、千本通沿いに常高寺(じょうこうじ)はある。通り沿いに「今出川菊亭右大臣鳥羽殿跡(いまでがわ-きくてい-うだいじん-とばどの-あと)」の石標が立つ。山号は栄昌山という。 日蓮宗、本尊は釈迦・多宝両如来坐像を安置する。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 室町時代後期-江戸時代前期、この地に公卿・今出川晴季(1539-1617)の鳥羽殿が営まれた。 江戸時代前期、1617年、晴季の没後に、夫人・菊御料人(?-?)の隠居所になる。 常高院(?-1633)は、夫・京極高次(1563-1609)、侍臣の菩提を弔うためにこの地に庵を開いたという。 1633年以降、常高院の没後に、今出川(菊亭)経季(1594-1652)の室・古奈姫(?-?、高樹院)は、養母・常高院の成仏を願い、日桓(にちかん)上人(?-?)を開基とし、常高寺を建立したという。 ◆今出川晴季 室町時代後期-江戸時代前期の公卿・今出川晴季(いまでがわ-はるすえ、1539-1617)。菊亭晴季。初名は実維、法名は常空。左大臣・今出川公彦(きんひこ)の子。1545年、元服し、将軍・足利義晴からの偏諱を受け晴季に改名する。1548年、従三位。1555年、権大納言に就任した。1557年、権大納言兼右大将、1560年、従二位。武田信虎の末女・菊御料人を娶る。侍従、美作守、権中納言などを歴任した。1566年、神宮博奏になる。この頃、甲府下向、ー蓮寺で武田信玄などと歌会をした。1568年、第106代・正親町天皇の第1皇子・誠仁親王の別当になる。1579年、内大臣、1585年、従一位、右大臣になり、豊臣秀吉の関白就任に尽力し、朝廷内の周旋に努めた。1588年、衆楽亭御会御歌(正月)に参加する。1595年、娘・一の台の婿・豊臣秀次の事件により、一の台らは三条河原で斬首される。晴季も連座し越後国に流罪になった。1596年、赦されて帰京する。秀吉の死後、1599年-1603年、ふたたび右大臣になる。79歳。 死後は景光院と称された。墓は上善寺(上京区)にある。 ◆菊御料人 室町時代後期の菊御料人(?-?)。詳細不明。武将・武田信虎(1494-1574)の末女。1560年、今出川晴季に嫁いだ。 伏見区下鳥羽(現・常高寺の付近)に隠居所があったという。 ◆今出川経季 安土・桃山時代-江戸時代前期の公卿・今出川経季(いまでがわ-つねすえ、1594-1652)。初名は宣季、菊亭経季、号は照一院。権中納言・今出川季持の子、母は中山親綱の娘、今出川晴季の孫。妻は氏家行広の娘(京極高次の養女) 。1598年、叙爵。その後、侍従・左近衛少将・左近衛中将を経て、1613年、従三位になる。1619年-1627年、権大納言、1626年、第108代・後水尾天皇第2皇子・高仁親王の誕生に伴い、その親王家勅別当に任じられる。1628年、正二位、1638年、権大納言に再任され、右近衛大将に任官している。1639年、両職を辞した。1644年、武家伝奏(てんそう)になる。1649年、後水尾上皇の院別当に転じた。1652年、右大臣になり同日没した。59歳。 ◆常高院 安土・桃山時代-江戸時代前期の女性・常高院(じょうこういん、?-1633)。名は初(発)、諱は藤子。近江(滋賀県)の生まれ。近江小谷(おだに)城主・浅井長政の次女、母は織田信長の妹・お市の方(小谷の方)。姉は豊臣秀吉の側室・淀殿、妹は徳川秀忠室・崇源院(江)。1573年、父・長政は伯父・織田信長と交戦し、小谷城は父・長政と祖父・久政の自害により落城した。母・市と三姉妹は藤掛永勝に救出され、以後、伯父・織田信包の下で庇護を受けた。尾張国守山城主・信長叔父・織田信次に預けられたともいう。1574年、信次が戦死し、織田信長の岐阜城に転居する。1582年、本能寺の変で信長が家臣・明智光秀に討たれる。織田家後継者を決める清洲会議により、母・市は織田家重臣・柴田勝家と再婚し、娘達とともに越前国北ノ庄城(福井市)に移る。1583年、清洲会議以後、勝家は羽柴秀吉と対立し賤ケ岳の戦いに敗れ、お市の方も自害した。娘3人は秀吉のもとに引き取られた。1587年、秀吉の計らいにより、浅井家の主筋にあたる京極家当主・従兄・京極高次に嫁した。1593年、忠高を産む。1598年、近江蒲生郡のうちに2045石を秀吉から与えられる。徳川家康の命により妹江の娘(興安院)を養女とし、のち子・忠高の妻とした。1609年、夫・高次が没し、剃髪し常高院と号した。1614年、大坂冬の陣で、高次の嫡子・忠高は徳川軍にあり、常高院は豊臣方代表として徳川方阿茶局と交渉し、和睦を成立させた。1615年、大坂夏の陣で、淀殿と家康の交渉の仲立ちになり駿府に入る。成果はなかった。秀頼の娘・天秀尼の助命を家康に嘆願したともいう。1633年、京極忠高の江戸屋敷に没した。64歳。 今出川(菊亭)宣季の妻(高次の養女)に300石を与え、若狭・常高寺に300石を寄付した。 若狭・常高寺(福井県小浜市)に葬られた。 ◆日桓上人 江戸時代前期の日蓮宗の僧・日桓上人(にちかん-しょうにん、?-?)。詳細不明。今出川(菊亭)経季の叔父。常高寺を建立した。 ◆古奈姫 江戸時代前期の古奈姫(こなひめ、?-?)。古奈、高樹院。父は氏家直元(卜全)、母は京極高次の妹。常高院の養女になる。今出川(菊亭)経季(つねすえ)の室になる。同家が熱心な法華経の信仰家であり帰依した。養母・常高院の成仏を願い、夫・経季の叔父・日桓上人(にちかんしょうにん)を開基として常高寺を建立した。 ◆常高寺 室町時代後期-江戸時代前期、この地に公卿・今出川晴季(1539-1617)の鳥羽殿があった。1617年に晴季が亡くなり、夫人・菊御料人の隠居所になる。 1609年以降、常高院(初、?-1633)は、夫・京極高次(1563-1609)の没後に、剃髪出家し常高院と称した。その後、この地に、夫と侍臣の菩提を弔うために庵を営んだという。 常高院は、夫・高次の妹の娘・古奈姫(こなひめ、?-?)を養女とした。古奈姫は今出川(菊亭)経季(1539-1617)の室になっている。同家は熱心な法華経信仰家であり古奈姫も法華経に帰依した。 江戸時代前期、1633年の常高院の没後に、古奈姫(高樹院)は養母の成仏を願う。夫の叔父・日桓(にちかん)上人(?-?)を開基として、現在の常高寺を創建したという。 ◆今出川家 今出川家(いまでがわけ)は、藤原氏北家閑院流であり、菊亭家ともいう。西園寺家の庶流になる。家格は清華家(せいがけ、五摂家に次ぐ公家)、家業は琵琶だった。 鎌倉時代前期-中期の太政大臣・西園寺実氏(さねうじ、1194-1269)は今出川殿に住み、子孫は今出川家を称号にした。鎌倉時代中期-後期、実氏の子・実兼(さねかね、1249-1322)の4男・兼季(かねすえ、1280-1338)を始祖にした。また、公顕(きんつね、1274-1321)が始祖ともいう。 兼季は、菊を愛し烏丸北大路(今出川)の邸に菊を植えた。菊亭入道と称し、子孫も菊亭を称した。室町時代後期-江戸時代前期の晴季(はるすえ、1539-1617)は、。豊臣秀吉の関白宣言を斡旋した。 江戸時代の家禄は1355石余だった。近代に公爵になる。 ◆仏像 本堂に本尊の釈迦・多宝両如来坐像を安置する。 ◆建築 2つの山門、鉄筋コンクリート造りの本堂、鐘楼がある。 ◆文化財 「六角型石灯籠」には、江戸時代前期、「寛文3年(1663年)」と記されている。寺の創建時に近い遺物とみられる。 ◆墓 常高院の菩提寺になっている。 ◆石標 「今出川菊亭右大臣鳥羽殿跡(いまでがわ-きくてい-うだいじん-とばどの-あと)」の石標が北側の門前に立つ。 詳細は不明。この地に、室町時代後期-江戸時代前期の公卿・菊亭(今出川)晴季(1539-1617)の鳥羽殿が営まれた。その後、夫人の隠居所になったという。 隠居所は、後に現在の常高寺に改められたという。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「伏見区あれこれ : ふしみ昔紀行」、ウェブサイト「今出川晴季伝-豊臣・徳川政権交替期を生きた人物-」、『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() |
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