芹根水 (京都市下京区)
Serinenomizu
芹根水  芹根水
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書家・烏石葛辰が立てた「芹根水」の標柱石


烏石の書による「文房四神之碑」


梅ケ枝手水鉢(西堀川通木津屋橋角)


周辺の町並み、左が西堀川通、この奥(北)に西本願寺がある。平安時代以来、この通りに堀川が通じていた。手前には生酢屋橋が架かっていた。川幅はいまの通りよりも広く、平安京の建都の際には、様々な物資がこの川を往来した。川は下流で鴨川に合流し、大坂湾からの水運の要となっていた。中世には川沿いに大きな屋敷が建ち並んだ。今も残る紺屋町の町名が示すように、安土・桃山時代にはこの一帯では染物業も盛んだった。芹根水もこの堀川筋にあった。本願寺などの創建後は、写真の右の曲がった通が堀川の流路に変わった。近代以降も、堀川での染色は続いている。その後、河川の水質の悪化、水害の被害も相次いだ。20年ほど前に堀川は暗渠化され、写真のように地上部分は道となり、川は完全に失われた。
 芹根水(せりねのみず)は、平安時代より霊水として知られていた。室町時代には能阿弥によって、茶の七名水の1つに数えられる。茶人、文人墨客、商家などに好まれたという。 
◆歴史年表 かつての芹根水は、堀川西岸の清水町辺りにあったという。
 平安時代、水は源融(822-895)の六条河原院の邸宅にも引き入れられていたという。
 江戸時代、宝暦年間(1751-1764)、著名な書家・烏石葛辰(うせき かつしん、1770-1779、葛烏石、烏石山人)がこの井戸を寄進している。葛辰は当時、下魚棚通西堀川角に住んだという。葛辰は洛中の名水の保存と顕彰に努めていた。 当時の井水は、堀川通の生酢屋(きずや)橋通南にあった。井戸は、井筒で囲まれ、清水は堀川に注いでいた。葛辰自身が「芹根水」と書し、刻んだ石標も立てたという。(『都市名所図会』、1780)。生酢屋は、月見橋ともいわれ、月見の名所でもあったらしい。
 近代、1914年、堀川の改修の際に、井戸は荒廃し、濁水も混入した。さらに普段の堀川も水を失ったため、井戸も涸れた。その後、標柱石のみは堀川に残されていたという。
 現代、1982年、押小路以南の堀川暗渠化に伴い、井水の痕跡は完全に消失した。同年、標柱石は掘り出され、現在は旧安寧(あんねい)小学校西側の地に移され立てられている。
◆松下烏石 江戸時代中期の日本の書家・松下 烏石(まつした うせき、1699-1779)。江戸の生まれ。名は辰。幕臣・松下常親の次男。書は佐々木玄竜・文山兄弟に学ぶ。詩文を服部南郭に学ぶ。明和年間(1764-1772)、江戸より京都に移る。西本願寺の賓客になった。著『消間印譜』。
 江戸・磐井神社に烏模様のある天然石「烏石」を寄進し、評判になったという。
◆文房四神之碑 江戸時代の書家・烏石の書による「文房四神之碑」が立つ。
 文房四神之碑は、南方・朱雀を筆、東方・青龍は硯、西方・白虎は紙、北方・玄武は墨と、四神になぞらえて崇敬するの意になる。
 かつては道祖神社の「書聖天満宮」に立てられていた。社の改築に伴い、1994年にこの地に移された。
◆梅ケ枝手水鉢 梅ケ枝手水鉢(西堀川通木津屋橋角)は、芹根水碑の真北100mにある。
 歌舞伎「ひらがな盛哀記」には、この手水鉢が題材になっている。夫のために遊女となった梅ヶ枝が、金の工面のためにこの手水鉢に向かって祈ったという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『昭和京都名所図会 5 洛中』 、ウェブサイト「コトバンク」


堀川     道祖神社・書聖天満宮               

御方紺屋町 京都市下京区御方紺屋町,西堀川通塩小路上ル 

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