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京都大学旧工学部建築学教室本館(総合研究15号館) (京都市左京区) the former Main building of the Architecture Laboratory of the Engineering Department of Kyoto University |
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京都大学旧工学部建築学教室本館 | 京都大学旧工学部建築学教室本館 |
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![]() 南側、正面 ![]() 南側、正面玄関 ![]() 南側、正面玄関 ![]() 南側、正面玄関 ![]() 南側、正面玄関、持ち送り ![]() 南側、正面玄関、柱頭 ![]() 南側、正面玄関 ![]() 南側、正面玄関 ![]() 南側、正面玄関、「建築学教室」 ![]() 南側、正面、ベランダ ![]() 南側、正面 ![]() 南側、正面、パラペット ![]() 南側 ![]() 南西端 ![]() 北側 ![]() 北側 ![]() 北側 ![]() 北側、階段室 ![]() 北側 ![]() 「第一回卒業生記…(年植樹?)」の石標 ![]() 記念植樹のクスノキの大木? |
京都大学の本部構内に、京都大学旧工学部建築学教室本館(きょうとだいがく-きゅう-けんちくがく-きょうしつ-ほんかん)はある。現在は総合研究15号館と呼ばれている。 近代の建築家・学者・武田五一、日比忠彦が設計した。大学構内初の鉄筋コンクリート造になった。 ◆歴史年表 近代、1920年、京都帝国大学建築学科が開設される。 1922年、旧運動場に建築学教室本館、背後に製図室が竣工した。 ◆武田五一 近代の建築家・建築学者・武田五一(たけだ-ごいち、1872-1938)。備後福山(広島県)の生まれ。父・備後福山藩士・司法官・平之助(直行)、母・八重の第5子。父の赴任に従い、神戸、姫路、岐阜、高知に住む。1888年、京都第三高等中学校補充科に入学した。1894年、京都第三高等中学校本科を卒業し、京都帝国大学工科大学造家学科に入学する。1897年、帝国大学(東京帝国大学)造家学科(建築学科)を首席卒業し、同大学院に進学した。1899年、大学院中退後、東京帝大助教授に任じられる。東京高等師範学校講師嘱託、東京美術学校教官になった。1901年-1903年、文部省より命ぜられ欧州留学する。ロンドン・カムデン美術学校で学び、各地を巡る。アール・ヌーボー、セセッションなどを体験する。1903年、帰国後、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科教授になる。1904年、京都府技師を兼任し、平等院鳳凰堂・鹿苑寺金閣の保存に関わる。1907年、東京・福島行信邸で、日本初のウィーン・セセッションの様式を試みた。アール・ヌーボーの造形を紹介する。1908年、大蔵省臨時建築部技師を兼任し、国会議事堂建築のために欧米視察した。1912年、パナマ太平洋万国博覧会事務取扱嘱託になる。1915年、工学博士学位を取得する。勲四等瑞宝章を受賞した。1916年、法隆寺壁画保存会委員になる。1917年、片岡安らと「関西建築協会」を設立する。1918年、名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)校長に転任した。1920年-1932年、京都帝国大学建築学科創立に伴い教授になる。1925年、大蔵省営繕管財局技師を兼任した。1929年-1931年、京都帝国大学営繕課長事務取扱として学内建築物の造営に関わる。1931年、欧米出張し、19カ国を訪れた。1934年以来、法隆寺大修理工事事務所長を務める。65歳。 「関西建築界の父」といわれた。奈良・京都の古社寺保存修復、橋梁、博覧会場、公園、記念碑、都市計画、街路施設、家具意匠、染色なども手掛けた。主な作品として、旧日本勧業銀行本店(1899) 、日本初のセセッション建築とされる東京・福島邸(1907)、京都府立図書館(1909)、京都・円山公園(1912)、京都・同志社女子大学ジェームス館 (1913) 、京都・旧松風嘉定邸 (現・五龍閣、1914)、山口県庁舎・県会議事堂(1916) 、大阪・瀧安寺鳳凰閣(1917) 、兵庫・清水寺根本中堂・大講堂・本坊・客殿(1917) 、東京・旧村井吉兵衛邸(現・延暦寺大書院、1919) 、 兵庫・清水寺鐘楼 (1919)、兵庫・光明寺根本本堂(1925) 、 和歌山・高野山大学図書館 (1928)、代表作の東方文化学院京都研究所(1930)、京都・同志社女子大学栄光館(1932) 、鳥取・三朝大橋(1934年) など多数。葵橋、賀茂大橋なども設計した。 ◆日比忠彦 近代の建築学者・日比忠彦(ひび-ただひこ、1873-1921)。福井県生まれ。1887年、帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。京都帝大理工科大学助教授になる。1902年、震災予防調査会臨時委員になる。建築学研究のためにドイツ・フランスに留学した。1904年、米国を視察し帰国する。1906年、京都帝国大学教授になり建築学を担当する。1920年、欧米視察し、1921年、帰国後に没した。著『鉄筋コンクリートの理論及びその応用』など。49歳。 専門は建築材料学・構造建築学・材料強弱学だった。「鉄筋コンクリート研究の権威」といわれた。 ◆建築 ◈ 近代、1920年に京都帝国大学建築学科は開設されている。1922年に「京都大学旧建築学教室本館」は竣工した。設計は、同年に主任教授に就任した武田五一による。構造設計は土木工学科教授・日比忠彦による。 南面している。平面は「コ」の字型をしている。構内で最初の鉄筋コンクリート造であり、煉瓦造からの転換点にあった。正面中央2階部分は、壁を外側へ丸く膨らませている。正面のベランダも張り出し、壁に連動して曲線が強調されている。薄い壁にし、重さを支えなくてもよい壁体のために湾曲が可能になった。外装材は、平滑な褐色(小豆色)の小口タイルを貼る。1階窓上では、タイルの貼り方、色を変えて変化をつけている。背後(北側)の階段室も曲面が強調されている。セセッション(19世紀末のドイツ・オーストリア各都市に興きた芸術革新運動、分離派)を基調にしている。頂上の帯状の装飾パラペット(屋上外周部の先端に設けられた低い立ち上がり部分)にもセセッション風の特色が見られる。瓦屋根ではなく、平面状の屋根である陸屋根も構内初例になる。玄関の持ち送り、柱頭に装飾が施されている。階段室にはステンドグラスが嵌め込まれている。 施工は直営、鉄筋コンクリート造2階建、陸屋根、前面48.2m、側面18m。 ◈ 「製図室」も、1922年に同時に竣工している。本館の背後に建てられた。構内で最初の鉄筋コンクリート造だった。現存していない。 ◆建築学科 京都帝国大学建築学科は、1920年8月に、当初は3講座で創設された。1964年4月に建築学第二学科が創設されている。 1996年4月に建築学科と建築学第二学科を統合し、大学科・建築学科になった。 *内部は通常非公開 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献 ウェブサイト「文化財データベース-文化庁」、『京都市の近代化遺産』、『近代京都の名建築』、『京都の洋館』、『武田五一の建築標本』、ウェブサイト「京都大学」、ウェブサイト「京都大学工学部建築学科」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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