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富士谷成章宅跡 (京都市上京区) Site of Fujitani,Shigeakira Residence |
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富士谷成章宅跡 | 富士谷成章宅跡 |
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中立売通西洞院西入ル南側に、「富士谷成章宅址(ふじたに-しげあきら-たくあと)」の石標が立てられている。 ◆歴史年表 江戸時代中期、この地には、筑後柳川藩京都留守居の富士谷家を継いだ富士谷成章(ふじたに-なりあきら、1738-1779)の邸宅(中立売西洞院)が藩邸内にあった。 近代、1917年、3月、京都市教育会により石標が立てられた。 ◆富士谷成章 江戸時代中期-後期の国学者・歌人富士谷成章(ふじたに-なりあきら、1738-1779)。男性。本姓は皆川、字は仲達、通称は千(専)右衛門、号は層城(そうじょう)、北辺(きたのべ)など。京都の生まれ。父・御典医・皆川成慶(春洞)の次男、儒者・皆川淇園の弟。長男は国学者・富士谷御杖(みつえ)。19歳で、筑後柳河藩京都留守居・富士谷家の養子になった。藩邸(中立売西洞院)に住んだ。兄に漢学、有栖川宮職仁親王に和歌を学ぶ。経書、歴史学、後に国語学に関心を寄せた。 日本初の品詞分類、てにをは・活用、国語史の時代区分などで後の研究に影響を与える。『挿頭抄(かざししょう)』『脚結抄(あゆひしょう)』は、国文法の研究書になる。和歌の変遷書『六運略図』『北辺七体七百首』は、没後、本居宣長に賞賛された。『非南留別志』は荻生徂徠の批判書になる。42歳。 墓は上品蓮台寺(北区)にある。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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