森寛斎宅跡 (京都市中京区)  
The ruins of the residence Mori,Kansai
森寛斎宅跡 森寛斎宅跡
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「勤王画家 森寛斎宅蹟」の石標



 室町通二条下ル東側に「勤王画家(きんのう-がか) 森寛斎宅蹟(もり-かんさい-たくあと)」の石標が立てられている。
 森寛斎は円山派の画家であり、幕末には尊王派としても活躍した。
◆歴史年表 江戸時代末期-近代、この地には森寛斎(もり-かんさい、1814-1894)の邸宅があった。
 近代、1894年、寛斎はこの地で亡くなる。
 1929年、京都史蹟会により石標が立てられる。門下の日本画家・山元春挙 (1872-1933、やまもと-しゅんきょ)、日本画家・奥谷秋石(おくたに -しゅうせき?-1936)らが寄付している。
◆森寛斎 江戸時代末期-近代の画家・森寛斎(もり-かんさい、1814-1894)。長州萩の生まれ。本名は石田公粛、字は子容、号は寛斎、晩山ほか。長州藩士・石田伝内の3男。12歳で太田田竜に入門し、桃蹊(とうけい)と号した。1831年、大坂に出て円山応挙の門下・森徹山(もり-てつざん、森狙仙の養子)に師事した。25歳の時、徹山に認められ養子なる。1838年、森派を立てるために京都に移り、円山派の振興に尽した。1855年、御所造営に加わる。幕末、勤皇の志士になり、長州藩の尊攘志士と交わり支援した。長州藩密偵になり、長州、京都を往復した。品川弥二郎と親交があったという。1877年、日本画家・塩川文麟(しおかわ-ぶんりん)の没後、文麟が主宰した京都画壇の研究団体「如雲社(じょうんしゃ)」を引き継ぐ。1880年、京都府画学校の教授になる。1882年、第1回内国絵画共進会で銀賞を受賞した。1886年、京都青年絵画研究会会長になる。1890年、第1回帝室技芸員に任じられた。
 円山派の描法を伝えた。作品に「蓬莱山水図」 (1872) 、「松間瀑布図」 (1890) などがある。81歳。墓は霊山神葬墓地(東山区)にある。
 門下に野村文挙(のむら-ぶんきょ)、山元春挙(やまもと-しゅんきょ)らがいる。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献 『新選組と幕末の京都』『京都大事典』、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 森寛斎宅跡 〒604-0021 京都市中京区蛸薬師町,室町通二条下ル東側 
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