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妙見寺 (京都市山科区) Myoken-ji Temple |
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妙見寺 | 妙見寺 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「妙見大菩薩」の扁額 ![]() ![]() 手水舎 ![]() ![]() 観音堂 ![]() 観音堂、「慈母観世音菩薩」の扁額 ![]() ![]() 妙見堂 ![]() 妙見堂、「南無妙見大菩薩」の扁額 ![]() 妙見堂、「妙見大士」の扁額 ![]() ![]() ![]() 吉富稲荷大明神 ![]() 吉富稲荷大明神 ![]() 池 ![]() ![]() 玉光弁財天 ![]() ![]() ![]() 「妙見大菩薩」の額 ![]() ![]() ![]() ![]() 法華経石塚 |
妙見寺(みょうけん-じ)は、「妙見堂」、「妙見さん」とも呼ばれる。山号は護法山という。 日蓮宗。本尊は妙見大菩薩を安置する。 妙見大菩薩は、眼病平癒の篤い信仰がある。寿福、開運、厄除けの信仰を集めている。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 平安時代、794年、平安京遷都に際して北斗堂が祀られた。王城の四方(東西南北)を守護するために、北辰を祀る「星ノ宮(妙見菩薩)」が安置された。当寺は、そのうちの東に祀られた星ノ宮という。(『宇治郡名勝誌』) その後、焼失し、大いに荒廃したという。 江戸時代、1692年、当寺は、本山を持たない無本寺として記されている。(『社寺御改帳』) 1705年、無本寺として記されている。(「比留田家文書」) 1725年頃、眼病に霊験あるとされ妙見信仰で賑わう。(『月堂見聞集』) 1726年、旧10月、参詣者激増のため参詣断る。(『月堂見聞記』) 寛政年間(1789-1801)、日祥が堂宇を再興したという。(『宇治郡名勝誌』) 1787年、妙見堂に北辰を祀ると記されている。(『拾遺都名所図会』) 近代、1869年、浄土宗から日蓮宗に改めた。妙伝寺末になる。(『宇治郡名勝誌』『京都府地誌』)。近代以降に境内地は縮小された。 ◆妙見大菩薩 秘仏の本尊「妙見大菩薩」は春日作とされる。木像坐像であり2尺6-7寸(100㎝)あるという。首の髪は垂れ下り、冠はない。左の手に蛇、右の手に釼(つるぎ)を持つ。石座上の亀に載るという。(『月堂見聞集』)。33年毎に開帳され、妙見講がある。 ◆妙見信仰 妙見信仰は、北極星(北辰、子の星)を神格化した妙見菩薩に対する信仰をいう。星を本尊の妙見菩薩に見たてて星祭を行った。密教では、眼病平癒のために修法の妙見法を行い、 国土安寧、玉体安穏を祈願した。 宮中では、平安時代以後に元日の四方拝に際して、天皇自ら北斗の神号を称え、北辰に向かって属星を拝した。3月3日、9月3日に北辰に灯を献ずる御灯、北辰祭を行っていた。 平安時代前期、794年、第50代・桓武天皇の平安京遷都に際して北斗堂が祀られた。王城の四方(東西南北)を守護するために、北辰を祀る「星ノ宮(妙見菩薩)」が安置された。当寺は、そのうちの東に祀られた星ノ宮との伝承がある。(『宇治郡名勝誌』) いつの時代にか火災により焼失し、妙見菩薩きは久しく土中に埋もれていた。宇都宮左衛門尉朝綱が、これを得て本尊として崇敬したという。(『宇治郡名勝誌』) 江戸時代中期、1724年に、ある人が眼病を患い、大谷日親上人の墓に、100間参詣した。ある夜に夢告があり、山科の妙見菩薩に参詣するように告げられる。参籠すると治癒したという。以来、眼病祈願の妙見信仰で賑わったという。(『月堂見聞集』) ◆建築 山門、妙見堂、観音堂、玉光弁財天、吉富稲荷大明神などが建てられている。 ◆妙見道 西の日ノ岡峠から妙見寺門前に到る道は、「妙見道」と呼ばれている。妙見寺参道として使われていた。 ◆年間行事 龍神祭(諸天善神の法楽加持供養。)(3月15日)。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊年間行事(拝観)などは、中止、日時・内容変更の場合があります。 ❊参考文献・資料 『山科事典』、『京都山科 東西南北』、『史料 京都の歴史 第11巻 山科区』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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