冷泉天皇 火葬塚 (京都市左京区)  
The cremation mound of Emperor Reizei
冷泉天皇 火葬塚 冷泉天皇 火葬塚
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冷泉天皇火葬塚、「冷泉天皇陵 粟田山陵」の石標


冷泉天皇火葬塚



 冷泉天皇 桜本陵の南西に、冷泉天皇 火葬塚(れいぜいてんのう-かそうづか)がある。
◆歴史年表 
平安時代
、1011年、10月24日、冷泉天皇は東三条南院で亡くなる。11月16日条、桜本寺(さくらもとでら)前野で火葬にされた。その山傍に遺骨は納められる。(『日本紀略』)
◆冷泉天皇 平安時代中期の第63代・冷泉天皇(れいぜい-てんのう、950-1011)。諱は憲平(のりひら) 。憲平(のりひら)。第62代・村上天皇の第2皇子、母は皇后・藤原安子(あんし、右大臣師輔の娘)。生後2カ月で外祖父・師輔の宅で立太子する。967年、父・村上天皇の死により18歳で践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)し、即位した。藤原元方(もとかた)の娘・元子が産んだ広平(ひろひら)親王を越えて皇太子になる。叔父・実頼が関白に就任し、後見補佐した。以後、摂政・関白が置かれ、藤原氏の権力が強まる。969年、安和(あんな)の変は、冷泉天皇の側近で政権を仕切っていた左大臣・源高明が失脚させられた。高明は、次期皇太子に天皇の同母弟・為平(ためひら)親王を推していた。冷泉天皇は、2年の在位で異母弟・守平(もりひら)親王(第64代・円融天皇)に譲位する。天皇の第1皇子・師貞(もろさだ)親王の立太子を急ぐ、藤原伊尹(これただ)の策略による。以後、藤原氏の権力支配は完成し、摂関政治が始まる。太上(だいじょう)天皇の尊号を贈られる。62歳。
 天皇は、藤原氏台頭の犠牲になった。物の怪に悩み病弱であり、奇行が多かった。これらは、元方の怨霊の仕業とされた。冷泉院の諡(おくりな)は、譲位後11年間住んだ冷泉院に因んでいる。退位後の42年ほどは平穏に暮らした。大半は東三条南院で過ごし、この地で亡くなる。子に第65代・花山天皇、第67代・三条天皇がある。
 陵墓は桜本陵(左京区)にある。 陵の近くに火葬塚がある。
◆火葬塚 火葬塚の参拝道入口は閉じられており、全景を望むことはできない。細い参拝道が東に続いている。塚域は南北に長形で南東角は隅切りされている。ほぼ西面している。
 平安時代、1011年、10月24日、冷泉天皇は東三条南院で亡くなる。11月16日条、桜本寺(さくらもとでら)前野で火葬にされたという。(『日本紀略』)
 火葬塚は、かつての火葬場所になる。古代-中世には、火葬塚も陵墓に準じるものと考えられていた。最も格式の高い葬法であり、公式には天皇と近親者に限られた。火葬後に遺骨は別の墳墓に納められた。火葬地の施設を取り除いた後に土を盛り、石卒都婆を立てた。釘貫(くぎぬき、木戸)を建て四面に溝を掘った。(『吉事略儀』) 


62 村上天皇(在位:946-967)→63 冷泉天皇(在位:967-969)→64 円融天皇(在位:969-984)→65 花山天皇(在位:969-984)→66 一条天皇(在位:984-986)→67 三条天皇(在位::986-1011)


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『検証 天皇陵』、『歴代天皇年号事典』、『天皇陵 謎解き完全ガイド』、『京都大事典』、『歴代天皇125代総覧』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 冷泉天皇 火葬塚  〒606-8425 京都市左京区鹿ケ谷西寺ノ前町91-8
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