後冷泉天皇 火葬塚 (京都市北区)  
cremation mound of Emperor Goreizei
後冷泉天皇 火葬塚 後冷泉天皇 火葬塚
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 千本北大路の交差点の北東に、平安時代中期の第70代・後冷泉天皇火葬塚はある。
◆歴史年表 平安時代、1068年、4月19日(新暦5月22日)、後冷泉天皇は高陽院(かやのいん)中殿で亡くなる。(『扶桑略記』)。5月5日、船岡の西野(にしの)で火葬された。遺骨は仁和寺内の円教寺(えんきょうじ)に納骨された。(『扶桑略記』)。その後、仁和寺山(朱山)に葬られた。(『百錬抄』)
◆後冷泉天皇 平安時代中期の第70代・後冷泉天皇(ごれいぜい てんのう、1025-1068)。親仁(ちかひと)。第69代・後朱雀天皇の第1皇子。母は贈皇太后・藤原嬉子(きし)(太政大臣・道長の娘)。母は出産直後に亡くなる。1036年、12歳で親王宣下を受ける。1037年、立太子、1045年、父の死に伴い21歳で即位した。兄・藤原頼通が引き続き関白になり専権する。1051年、陸奥で豪族が反乱した前九年の役が起こる。1055年、御願により円乗寺が建立された。1067年、浄土思想の広まりにより、藤原頼通の建立した宇治平等院に行幸した。3日間滞在し、頼通を准三宮に叙した。封300石などを授けた。高陽院(かやのいん)中殿で亡くなる。
 後冷泉天皇天皇を最後に、100年間続いた摂関政治は弱体した。新立荘園停止の気運が高まる。妃に第68代・後一条の皇女・章子内親王、頼通の娘・寛子、教通の娘・歓子が入った。だが、いずれも子に恵まれず、藤原氏は外戚の地位を失う。日記に『後冷泉院御記』19巻(遺されていない)。『後拾遺集』『金葉集』などに歌が収められている。
 陵墓は円教寺陵(右京区)になる。
火葬塚 千本北大路の交差点の北東に火葬塚はある。ほぼ西面している。円墳になっており、西に拝所、石段が設けられている。
 平安時代、1068年、4月19日(新暦5月22日)、後冷泉天皇は高陽院(かやのいん)中殿で亡くなる。(『扶桑略記』)。5月5日、船岡の西野(にしの)で火葬にされた。
 火葬塚は、かつての火葬場所になる。古代-中世には、火葬塚も陵墓に準じるものと考えられていた。最も格式の高い葬法であり、公式には天皇と近親者に限られた。火葬後に遺骨は別の墳墓に納められた。火葬地の施設を取り除いた後に土を盛り、石卒都婆を立てた。釘貫(くぎぬき、木戸)を建て四面に溝を掘った。(『吉事略儀』) 


67 三条天皇 (在位:1011-1016)→68 後一条天皇 (在位:1016 -1036) →69 後朱雀天皇 (在位:1036-1045) →70 後冷泉天皇 (在位:1045-1068) →71 後三条天皇 (在位:1068-1072) →72 白河天皇 (在位:1072-1086)


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『検証 天皇陵』『天皇陵 謎解き完全ガイド』『歴代天皇125代総覧』『京都市の地名』『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 後冷泉天皇 火葬塚 〒603-8236 京都市北区紫野上御輿町8
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