光孝天皇 後田邑陵 (京都市右京区)  
Imperial mausoleum of Emperor Koko
光孝天皇 後田邑陵 光孝天皇 後田邑陵
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「光孝天皇陵」の石標




「光孝天皇 後田邑陵む」の石標
 宇多野御池町(うたの おいけちょう)に、後田邑陵(のち の たむら の みささぎ)がある。小松山陵(こまつやまりょう)とも呼ばれる。
 平安時代前期の第58代・光孝天皇(こうこう てんのう)が葬られている。
◆歴史年表 平安時代、887年、8月26日、光孝天皇が亡くなる。9月2日、小松山陵に葬られた。(『日本紀略』)。9月8日、四至を定め陵域内の8カ寺を壊して陵が造られる。
 1106年、仁和寺北院の僧房再興に際して、西築地垣が陵域を犯したという。(『中右記』)
 その後、陵所の所在地は不明になる。
 江戸時代、1862年-1863年、文久の修陵では陵地は見出されず修補されなかった。
 近代、1889年、6月、現在地の天王塚(てんのうづか、右京区)が光孝天皇陵に治定された。
◆光孝天皇 平安時代前期の第58代・光孝天皇(こうこう てんのう、830-887)。時康(ときやす)、小松帝。第54代・仁明天皇の第3皇子、母は贈太政大臣・藤原総継の娘・沢子。太皇太后・橘嘉智子の寵愛を受ける。16歳で元服、上野大守、常陸太守など親王任国長官を歴任(遥任、赴任せず)。第57代・陽成天皇の廃位後、外戚関係にない藤原基経の推挙により、884年、55歳で即位した。基経を事実上の関白とし、関白の初めになった。病気になり、887年、臣籍に下っていた第7皇子・源定省(第59代・宇多天皇)を親王に復し、皇太子に立てた。
 第55代・文徳天皇、第56代・清和天皇、第57代・陽成天皇の3帝に仕えた。849年、渤海国大使・王文矩は、必ず天子の位につく相であるとした。宮中行事の再興、和歌・和琴に秀でた。『古今集』に収められている。目の見えない人々のために、左女牛(さめうじ)に施設を建て保護したという。座頭の官を下賜し、検校、勾当の官に任じて庇護した。後世、天皇への報恩のために、積塔会(しゃくとうえ)が鴨川で行われた。
 墓は後田邑陵(小松山陵)にある。
◆陵墓 平安時代、887年8月26日、光孝天皇が亡くなる。9月2日、小松山陵に葬られた。(『日本紀略』)。9月8日、四至を定め陵域内の8カ寺を壊して陵が造られる。1106年、仁和寺北院の僧房再興に際して、西築地垣が陵域を犯したという。(『中右記』)。
 その後、陵所の所在地は不明になる。江戸時代、1862年-1863年、文久の修陵では陵地は見出されず修補されなかった。近代、1889年6月、現在地の天王塚(てんのうづか、右京区)が光孝天皇陵に治定された。
 陵地については、山城国葛野郡田邑郷立屋里小松原にあったという。(『延喜式』諸陵寮)。仁和寺西南の小松付近ともいう。(『帝王編年記』『雍州府志』)。仁和寺西、大教院の艮(うしとら、北東)付近ともいう。(『江家次第』)。また、仁和寺の子院、御願堂の喜多院(北院、右京区御室大内)付近ともいう。(『百錬抄』)。喜多院の西に隣接したともいう。(『中右記』)
 なお、御室陵墓参考地(右京区御室大内)が、1949年に光孝天皇とされている。


54 仁明天皇 (在位:833-850)→55 文徳天皇 (在位:850-858) →56 清和天皇 (在位:858-876)→57 陽成天皇 (在位:876-884)→58 光孝天皇 (在位:884-887)→59 宇多天皇 (在位:887-897)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『検証 天皇陵』『京都市の地名』『天皇陵 謎解き完全ガイド』『歴代天皇125代総覧』『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 光孝天皇 後田邑陵 〒616-8202 京都市右京区宇多野御池町8
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