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| 讃州寺跡 (京都市北区) Ruins of Sanshu-ji Temple |
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| 讃州寺跡 | 讃州寺跡 |
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![]() 参道入口 讃州寺の山号板![]() ![]() ![]() 【参照】近くの長坂越の急坂 ![]() 【参照】近くの紙屋川上流部 ![]() 【参照】旧地の町名表示板に残る「讃州寺町」(上京区) 【参照】旧地付近 |
鷹ヶ峯(たかがみね)の長坂越(山国道)に向かう途中、紙屋川近くの谷間に、讃州寺(さんしゅう-じ)跡がある。讃州禅寺とも呼ばれた。山号は鶏足山という。現在は廃寺になっている。 なお、旧地には、讃州寺町(上京区西洞院通一条下ル)の地名が残されている。 大徳寺・玉林院末寺、本尊は地蔵菩薩。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 鎌倉時代-南北朝時代、管領・細川讃岐守頼春(1299-1352)は、戦勝を地蔵尊に願い勝利したため、堂舎、寺領を寄進した。 室町時代、頼春の長子で讃岐守・細川頼之(1434-1511)、4男・頼元(兄・頼之の養嗣子、1343-1397)が堂を再建したという。 細川成之(1434-1511)も堂を再建し、西洞院一条(上京区讃州寺町)に寺地を移したという。付近には、細川氏の讃岐守陣館があった。(縁起) 細川政之(1455-1488)の邸宅を寺に改め、当寺を開創したともいう。寺号は讃岐守に因んだ。(『坊目誌』)。なお、この政之とは父・成之の誤りともいう。 1475年、「讃州陣地蔵蔵珠院」とある。(『親長卿記』)。この頃、讃州寺は、本尊・地蔵菩薩を安置し、蔵珠院(寺)とも号された。 1481年、「蔵珠院」とある。(『宣胤卿記』) その後、竹屋辻子(上京区、堀川上立売北)に寺地を移し、「竹屋地蔵」とも呼ばれた。(縁起) 1521年、六地蔵の一つに数えられていた。(『宣胤卿記』) 安土・桃山時代-江戸時代、豊臣秀吉(1537-1598)、徳川家康(1543-1616)は、御朱印を与え、山林除地、諸役を赦した。(縁起) 江戸時代初期、1652年/慶安年間(1648-1651)、京都所司代・板倉重宗の命により大徳寺・玉林院2世・祥善が、現在地(愛宕郡鷹ヶ峰千束村)の普明庵に移す。(縁起) 享保年間(1716-1735)、御朱印寺領5石、寺地174坪、寺家2軒があった。(「京都御役所向大概覚書」) 1762年、讃州寺町、讃州寺について記されている。(『京町鑑』) ◆細川 頼春 南北朝時代-室町時代の武将・細川 頼春(ほそかわ-よりはる、1299-1352)。男性。通称は源九郎。父・細川公頼、頼之の父。1331年、元弘の変より足利尊氏に従い、関東より畿内に転戦する。1333-1336年、建武政権では蔵人になる。1336年、尊氏の九州落ちに際して、兄・和氏とともに四国平定に尽力する。その後、越前守護になり、後に斯波高経との確執になる。1349年-1352年、観応の擾乱で、足利直義と対立した尊氏方の侍所頭人、引付(ひきつけ)頭人になる。直義方と戦い、足利義詮を助ける。1352年、南朝軍が和議を破って京都に突入し、七条大宮で南朝方を迎え討死する。射術に優れた。和歌に秀でた。54歳。 ◆細川 頼之 鎌倉時代後期-南北朝時代の武将・細川 頼之(ほそかわ-よりゆき、1329-1392)。男性。名は弥九郎、右馬助、右馬頭(うまのかみ)、武蔵守、法号は常久、道号は桂岩。三河(愛知県)の生まれ。父・北朝の武将・頼春、頼元の兄。1336年、足利尊氏が第96代・後醍醐天皇に叛旗を翻し九州に敗走する際に、四国の南朝方と歴戦した。1349年-1352年、足利将軍家の内紛に起因した観応の擾乱で、父と共に尊氏に従い戦う。1350年-1351年、父の名代として阿波で南朝方と戦う。1352年、父の討死により阿波守護を継ぐ。1354年、伊予守護を兼ね、畿内、四国で南朝方と戦う。1356年、中国管領として中国・四国の足利直冬(ただふゆ)党を鎮圧した。1362年、南朝方になった従兄弟・前幕府執事・細川清氏を讃岐白峰城に討ち、讃岐、土佐の守護を兼ね四国管領になった。1367年、足利義詮(よしあきら)の遺命により、幼少の将軍・義満を補佐し管領になる。花の御所の造営、室町幕府が荘園、公領の年貢半分の徴収権を守護に認めるなど幕政確立に尽力した。1368 年、武蔵守、半済令(はんぜいれい)の施行、南朝との和睦などを行う。1379年、権力奪取事件の康暦の政変で、有力大名との軋轢、義満にも疎まれ失脚、その後、地蔵院で剃髪出家し讃岐に帰る。1389年、義満の瀬戸内巡歴に協力し、1390年、備後守護になり山名時煕(ときひろ)の反乱を討つ。1391年、管領に就任した頼元を後見し幕政に加わる。明徳の乱で山名氏清を諸将とともに討つ。64歳。 幼少期に臨済宗の禅僧・夢窓疎石より影響を受け、京都の景徳寺、地蔵院、阿波の光勝院・宝冠寺を建立した。土佐の吸江庵(ぎゅうこうあん)を再興した。歌、連歌、詩文に長じた。『新千載和歌集』などに入集した。 墓は地蔵院(西京区)にある。 ◆細川 頼元 南北朝時代-室町時代前期の武将・細川 頼元(ほそかわ-よりもと、1343-1397)。男性。幼名は聡明丸、通称は三郎、初名は頼基。父・細川頼春(よりはる)の4男、兄・頼之(よりゆき)の養嗣子になる。右京大夫に任官し、以後、細川惣領家が代々世襲し「京兆家(けいちょうけ)」と呼ばれた。1369年、南朝方から幕府方(北朝方)に転じた楠木正儀(まさのり)を救援し、紀伊の南朝軍を討つなどの軍功をあげた。1373年頃より、摂津守護になる。管領頼之を補佐し、1379年、康暦(こうりゃく)の政変により頼之とともに四国に下った。1381年、赦され上洛する。1391年、頼之の後見の下で幕府管領になる。同年、明徳の乱の鎮定に功をあげ、京兆家が摂津・丹波・讃岐・土佐守護を世襲する基を開いた。1393年、管領を辞した。病没。55歳。 和歌をよくし、『新後拾遺和歌集』『新続古今和歌集』に入集している。 ◆細川 成之 室町時代の武将・細川 成之(ほそかわ-なりゆき/ しげゆき、1434-1511)。男性。通称は六郎、号は道空。父・細川教祐、細川満久の孫。子に政之。伯父・細川持常(もちつね)の養子になる。後に讃岐守護。1449年、持常の急逝により、阿波・三河守護を継ぐ。1462年、幕命により畠山政長を助け、金胎寺城の畠山義就を攻めた。1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)で、子・政之とともに東軍・細川勝元方に加わる。1485年、一部の重臣が阿波で反乱し、政之と下国、細川政元は、政国、尚春らを遣わし助ける。1488年、子・政之が没し、政務復帰した。1504年、薬師寺元一が成之の孫・澄元を擁して反乱、政元の攻撃を受けてこれを鎮圧する。晩年は禅に傾倒した。和歌、絵画、蹴鞠に秀でた。78歳。 ◆細川 政之 室町時代の武将・細川 政之(ほそかわ-まさゆき、1455-1488)。男性。通称は九郎。父・細川成之の長男。8代将軍・足利義政より偏諱を許され政之と名乗る。応仁・文明の乱(1467-1477)で、父・成之とともに参戦し、足利義政・義尚に仕える。1478年、娘の死後、突然に出家し、成之が阿波守護職を譲られ家督i なる。その後、家臣間に対立、混乱が生じた。1482年、家臣と所司代家臣の斬り合いに敗訴し、阿波に下向した。再度上洛後、1485年、一部の重臣が阿波で反乱し、鎮圧した。その陣中で病死する。34歳。 ◆祥善 江戸時代前期の臨済宗の僧・祥善(?-?)。詳細不明。大徳寺・玉林院2世という。1652年/慶安年間(1648-1651)、京都所司代・板倉重宗の命により、讃州寺を現在地(愛宕郡鷹ヶ峰千束村)の普明庵に移したという。 ◆仏像・地蔵 地蔵菩薩、不動明王、多聞天は、かつて王城守護のために詔により、平安時代の弘法大師・空海(774-835)が造仏したという。都の四方に1体ずつ安置されたという。(縁起) 鎌倉時代-南北朝時代、管領・細川讃岐守頼春(1299-1352)は、戦を前に地蔵尊に願い戦勝したため、堂舎、寺領を寄進した。(縁起) 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、地蔵は「腹帯の地蔵」と呼ばれ、安産・母子安泰の信仰篤かった。女御更衣の懐妊に際して、必ず腹帯を授与した。貴人に限らず、庶民の信仰も集める。(縁起) ◆建築 本堂など2棟が残る。 ◆文化財 室町時代後期、1540年の「細川氏之知行安堵状」、1549年の「遊佐長数禁制」、室町時代後期、1551年の「三好義賢禁制」、室町時代後期、1558年の「香西元成禁制」を所蔵した。 ◆六地蔵巡り 室町時代、六地蔵巡りに讃州寺・蔵珠院の本尊・地蔵も含まれていた。当時、蔵珠院と号したという。(『資益王記』) 室町時代後期、1473年、当時の六地蔵巡りとして「讃州陣の蔵珠院」などを参詣したと記されている。(『親長卿記』)。ほかにも、1474年には、六地蔵として西院(高山寺)、壬生(地蔵堂)、八田(矢田寺)、屋禰葺(星光寺)、清和院、蔵珠院正親町西の洞院の名がある。(『資益王記』)、1479年、『宣胤卿記』、1521年、『宣胤卿記』にも「蔵珠院」参詣について記されている。 ◆讃州寺町 旧地には上京区に讃州寺町(さいしゅうじ-ちょう)の地名がいまも残っている。讃岐守の館(陣)、讃州寺があったことが町名の由来になった。 江戸時代前期、1637年には「さい志やうし町」と記されている。(『寛永十四年洛中絵図』)。江戸時代中期、1762年には「讃州寺町」とあり、かつて存在した讃州寺が町名由来になったと記されている。(『京町鑑』) ◆樹木 本堂前に杉の大木が立つ。樹高40m、幹回り6m、樹齢350年ともいう。 複数の楓が植えられている。 *現在は廃寺です。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 当社縁起、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都市の地名』、『京都の地名検証 3』、『京都大事典』、『京都の地名由来辞典』 、ウェブサイト「コトバンク」 |
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