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等善寺 (京都市下京区) Tozen-ji Temple |
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等善寺 | 等善寺 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 地蔵尊 |
等善寺(とうぜん-じ)の山門脇に「開基 中納言橘行平卿公」の石標が立つ。山号は金蓮山という。 浄土宗西山禅林寺派、本尊は阿弥陀如来を安置している。 ◆歴史年表 平安時代初期、この地には、源融(822-895)の邸宅「六条河原院」があったという。 893年、官人・橘行平(たちばな-の-ゆきひら)が開基という。当初は真言宗だった。 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、伝空が中興し浄土宗に改宗した。 ◆橘行平 平安時代中期の官人・橘行平(たちばな-の-ゆきひら、 ?-?)。男性。父・橘敏政、大納言・橘好古(たちばな-の-よしふる、893-972)の孫、第30代・敏達天皇の子孫という。従四位中納言。1005年、因幡国守、因幡守になる。1005年、因幡国の不動穀(律令制下、令制国の不動倉に保管された稲穀)について、前国司・藤原惟憲と争いを起こした。1007年、国衙官人、農民により苛政を訴えられる。豪族・因幡千里(因幡千兼とも)殺害に関与し、因幡守を解任されたともいわれている。 ◆伝空 安土・桃山時代-江戸時代前期の浄土宗の僧・伝空(?-?)。詳細不明。慶長年間(1596-1615)、等善寺を中興し浄土宗に改宗した。 ◆墓 橘行平の墓があるともいう。本堂前に五輪卒塔婆があり「橘行平公塋(えい)」と刻まれている。「塋」は「うずむ(墓)」の意味になる。 過去に、在原業平(825-880)の兄・行平(818-893)の墓と取り違えられてきた。 *原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都 歴史案内』 、『京都市の地名』、「菊浜トコとこマップ」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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