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二条富小路内裏跡 (京都市中京区) Ruins of the residence of Nijo-Tominokoji-Dairi(temporary palace) |
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二条富小路内裏跡 | 二条富小路内裏跡 |
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![]() 「二条富小路内裏址」の石標 |
富小路通夷川下ル西側に「二条富小路内裏址(にじょう-とみのこうじ-だいり -あと)」の石標が立つ。 鎌倉時代-南北朝時代、二条富小路内裏は、歴代天皇の皇居、里内裏として用いられた。 ◆歴史年表 鎌倉時代中期、この地に公卿・西園寺実氏(1194-1269)の邸宅の一つ「冷泉富小路殿」が営まれた。 1259年、閑院内裏焼失後、第89代・後深草天皇(1243-1304)の皇居になる。その後、上皇・天皇の御所として使われた。 1306年、焼失し、その後、再建されなかった。 1312年、鎌倉幕府から造内裏費用が献上される。平安宮内裏の殿舎に准じた里内裏「二条富小路内裏」が造営された。 第95代・花園天皇(1297-1348)の時、西の方まで拡張された。後、20年にわたり内裏になる。 第96代・南朝初代・後醍醐天皇(1288-1339)、南朝2代・光厳天皇(1313-1364)の内裏になった。 南北朝時代、1336年、後醍醐天皇の建武新政(1333-1336)崩壊による戦乱で焼失した。 ◆西園寺実氏 鎌倉時代前期-中期の公卿・西園寺実氏(さいおんじ-さねうじ、1194-1269)。法名は実空、号は常盤井入道。京都の生まれ。父は西園寺公経(きんつね)、母は藤原能保(よしやす)の娘・全子。第82代・後鳥羽朝以下7朝に仕える。1221年、承久の乱後、1246年、鎌倉幕府の支持で父の後を受け、太政大臣になる。幕府指名により朝幕間の連絡交渉にあたる関東申次(もうしつぎ)に任じられる。娘を第88代・後嵯峨天皇、第89代・後深草天皇の中宮とし、外祖父となる。2皇子も即位した。出家し、常盤井入道相国と称した。従一位。京都で没した。76歳。 詩歌、文章に秀で和歌は『新勅撰和歌集』以下に採られた。日記に『常盤井相国記』。 ◆後深草天皇 鎌倉時代中期-後期の第89代・後深草天皇(ごふかくさ-てんのう、1243-1304)。名は久仁、法名は素実、常盤井殿、富小路殿。京都の生まれ。第88代・後嵯峨天皇の第3皇子。母は藤原姞子(大宮院、太政大臣・西園寺実氏の娘) )。1246年、父の譲位を受け4歳で即位した。父が院政をしく。持明院統最初の天皇になる。1259年、父の意向により、17歳で同母弟の第90代・亀山天皇(大覚寺統)に譲位した。1287年、鎌倉幕府の斡旋により、子・煕仁(ひろひと)親王が第92代・伏見天皇に即位する。以後、院政をしいた。日記に『後深草院宸記』。京都で没した。62歳。 墓は深草北陵(伏見区)にある。 ◆花園天皇 鎌倉時代後期-南北朝時代の第95代・花園天皇(はなぞの-てんのう、1297-1348)。諱は富仁(とみひと)、法名は遍行、別名は萩原院、萩原法皇。京都の生まれ。第92代・伏見天皇の第3皇子。母は藤原季子(顕親門院)。第93代・後伏見天皇の異母弟。兄・後伏見天皇の猶子になり、1301年、皇太子、1308年、大覚寺統の第94代・後二条天皇の後に12歳で即位した。父、兄が院政をしく。鎌倉幕府の大覚寺統と持明院統の迭立案(文保の和談)に従い、1318年、大覚寺統の第96代・後醍醐天皇に譲位した。伏見上皇とともに持明院殿に住した。退位後、光厳天皇の養育を行う。信心深く、1335年、円観により出家、遍行と称した。宗峰妙超、関山慧玄に帰依し、大徳寺を祈願所とした。花園の萩原殿(妙心寺・玉鳳院の旧地)に居した。学問を好み、宗学を修める。和歌は京極派の一人、『風雅和歌集』を自撰した。日記に重要な史料『花園天皇宸記』がある。京都で没した。52歳。 墓は十楽院上陵(東山区)にある。 ◆後醍醐天皇 鎌倉時代後期-南北朝時代の第96代(南朝初代)・後醍醐天皇(ごだいご-てんのう、1288-1339)。諱は尊治(たかはる)、別名は吉野院。京都の生まれ。大覚寺統の第91代・後宇多天皇の第2皇子、母は参議・五辻(藤原)忠継の娘・談天門院忠子(ちゅうし)。1302年、親王宣下。1304年、大宰帥になり帥宮(そちのみや)と呼ばれた。1308年、持明院統の第95代・花園天皇の皇太子に立つ。1318年、大覚寺統の尊治(後醍醐天皇)が即位した。1321年、後宇多法皇の院政を廃し親政を始める。記録所を再興し吉田定房、北畠親房らを集め、諸所の政治改革・専制政治を展開する。1324年、鎌倉幕府打倒の正中(しょうちゅう)の変で、側近多数が逮捕され失敗した。1327年、皇子・護良親王を天台座主に就け、比叡山勢力を引き入れた。1331年、元弘の変で、京都を脱し東大寺に逃れ、笠置山に立て籠もる。諸国武士、寺社勢力などに蜂起を呼びかけ、幕府は大軍で包囲し、天皇は捕らえられる。1332年、隠岐島に流された。1333年閏2月、護良親王、楠木正成の蜂起に呼応し隠岐を脱出した。船上山で兵を集め、足利尊氏の内応を得る。5月、幕府は滅亡し、6月、京都に帰る。幕府擁立の持明院統・北朝第1代・光厳天皇を廃し、天皇独裁の建武新政を始めた。1335年、新政に失望した尊氏は、北条残党討伐のため関東に下り、後醍醐天皇に謀反を起こす。尊氏は西上し、天皇は比叡山延暦寺に逃れた。尊氏は九州に落ち、再度入京を果たし、天皇を花山院に幽閉した。1336年、建武親政は短期間に崩壊する。尊氏は北朝第2代・光明天皇を擁立し、室町幕府を開く。12月、後醍醐天皇は吉野に逃れ、吉野朝廷が開かれた。以後、1336年-1392年、南北朝併立時代に入る。1339年、子・義良親王(第97代・後村上天皇)に譲位し、翌日、悲運のうちに吉野で亡くなる。著『建武年中行事』『建武日中行事』。和歌は『新葉集」入集。52歳。 室町幕府・北朝に対抗した。楠木正成、赤松円心、名和長年ら悪党的武士団勢力を組織し、鎌倉幕府を滅ぼした。宋学に傾倒し、君主独裁政治を目指し武将・貴族・僧侶らの反発にあった。遺詔により、自撰の後醍醐と諡号した。朱子学、真言の教義、儀式典礼、和歌などにも通じた。20人前後の女性との間に40人近い子女があった。 陵墓は塔尾陵(とうのおのみささぎ)(奈良県吉野町)になる。 ◆光厳天皇 鎌倉時代後期-南北朝時代の北朝初代・光厳天皇(こうごん-てんのう、1313-1364)。量仁(かずひと)、法名は勝光智、無範。京都の生まれ。第93代・後伏見天皇の第1皇子。母は広義門院・藤原寧子。1326年、第96代・後醍醐天皇皇太子・邦良親王没後、鎌倉幕府の支持により皇太子となる。1331年、元弘の変後、即位し、父・後伏見上皇が院政をしく。1332年、後醍醐天皇の隠岐島配流、1333年、鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は吉野に移り南北朝に分裂した。光厳天皇は廃され太上天皇(上皇)となる。建武新政後、足利尊氏は挙兵し、1336年、光厳上皇の院宣により朝敵を免れた。尊氏の政権掌握後、光厳上皇は、弟の北朝第2代・光明天皇を即位させ院政をしく。1348年、北朝第3代・崇光天皇にも院政をしく。1351年、第97代天皇・南朝第2代・後村上上皇は崇光天皇を廃した。1352年、光厳上皇ら北朝3代は南朝軍に拉致され河内、大和などに移され幽閉された。1342年、上皇は夢窓疎石に帰依、1352年、賀名生で出家した。河内の金剛寺に移り、孤峰覚明に帰依、1357年、帰京し伏見深草・禅庵金剛寿院に入る。1362年、巡礼に出る。最晩年、京北の常照皇寺で余生を送る。日記は『光厳院御記』。52歳。 山国陵に葬られた。塚には松柏のみを植えることを許した。天龍寺・金剛院に遺髪塔がある。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都 歴史案内』、『京都大事典』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() |
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