三善清行邸跡  (京都市下京区)
Ruins of Miyoshi,Kiyoyuki Residence
三善清行邸跡 三善清行邸跡 
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「三善清行邸跡」の石標
 醒泉(せいせん)小学校敷地の西側に「三善清行邸跡(みよし-きよゆき-ていあと)」の石標が立つ。
 かつてこの地には、平安時代中期の学者・政治家・三善清行(みよし-きよゆき)の屋敷があったという。清行は、出没する物の怪にも動じなかったとされる。
◆歴史年表 平安時代初期、付近に三善清行(847-918)の屋敷があったという。清行は古い寝殿造の家を買い求めて住んだ。
◆三善清行 平安時代前期-中期の漢学者・三善清行(みよし-きよゆき/きよつら、847-918)。字は三耀、号は居逸、善相(ぜんしょう)公。淡路守・三善氏吉(うじよし)の3男、母は佐伯氏。学者・巨勢文雄(こせ-の-ふみお)に師事した。873年、文章生になる。874年、文章得業生になり、881年、方略試(国の登用試験)を受け不合格になる。問頭博士は菅原道真だった。2年後、37歳で及第し、大学少允(しょうじょう)になる。886年、少内記、887年、従五位下大内記になる。888年、第59代・宇多天皇が藤原基経に与えた勅書の文字「阿衡(あこう、摂政関白)」をめぐる「阿衡紛議」は、基経が権勢を天皇に認めさせるものだった。清行は、藤原佐世(ふじわら-の-すけよ)らに与し、阿衡は有名無実の職掌にすぎないとした。道真は反対説の橘広相(たちばな-の-ひろ)を弁護する。 (阿衡事件) 。893年、備中介になり、地方政治に関わる。900年、刑部大輔(ぎょうぶたいふ)、文章博士になり、右大臣・道真に「厄逃れ」のために辞職を勧める。901年、辛酉の年に当たり、道真の大宰府左遷後、辛酉革命の勘文(かんもん)を上奏し、中国伝来の辛酉革命・甲子(かっし)革令を唱えた。これらの年には政変があると説き、「延喜」に改元された。以後、60年毎に改元される。(964年以後は、甲子毎も)。大学頭(だいがくのかみ)を兼ねた。905年以後、藤原時平らと『延喜格式(きゃくしき)』の編纂に参加する。914年、式部大輔、「意見封事十二箇条」を第60代・醍醐天皇に上奏した。備中介の経験をもとに、中央の奢侈が地方を疲弊させているとして律令政治の再編を警世した。916年、善法寺を建立する。917年、参議・宮内卿になった。著『円珍和尚伝』 、『藤原保則伝』など。72歳。
 漢詩・漢文、易、経書・史書、明法(法律)、算道(算術)、陰陽道に通じた。1404 年、贈正二位大納言。
◆屋敷 三善清行は、五条堀川の辺にあった家を買い取り移り住んだという。物の怪が出る荒れた屋敷だった。『今昔物語集』90、「三善清行の宰相の家渡の語」には、これらの逸話が書かれている。古い5間の寝殿造であり、悪しき家とされ、久しく住む者もなかった。親族は清行が家に移ることを引き留めたが、清行は聞き入れなかった。
 清行が一人で眠ていると、夜半に天井の組入子(格子)毎に顔が現れた。清行が騒がずにいると、やがて顔は消えた。続いて板敷より、丈一尺(30㎝)ほどの者が、馬に乗り続き、西より東に40、50人ほど渡った。さらに、動じないでいると、塗籠(ぬりごめ)の戸より、座高三尺(90㎝)ほどの気高い女が現れた。口元を覆っていた扇を除けると、口は耳脇まで四五寸(13-15㎝)も切れ、牙も見えた。清行は騒がないため、塗籠の戸に入り消えた。
 明るい有明の月の下、今度は翁が文を携えて現れた。翁は、自分たちの住処を奪われた嘆きを清行に訴える。清之は、家は人から人へ移るものであり、人を住まわせないのは非道とし、鬼神とは道理を知るものと説いた。翁は恐れ入り、その後、恐ろしいことは止んだという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都 歴史案内』、『京都大事典』 、ウェブサイト「コトバンク」


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map 三善清行邸跡 〒600-8488 京都市下京区篠屋町59,醒ヶ井通松原下ル東側 醒泉小学校内
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