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養福寺 (京都市左京区) Yofuku-ji Temple |
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養福寺 | 養福寺 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂、扁額 ![]() 水子地蔵尊 ![]() ![]() 八瀬の山 ![]() ![]() |
八瀬遊園の北に養福寺(ようふく-じ)はある。「赤門さん」「赤門寺」とも呼ばれた。かつて三条大橋の東にあり、「四軒寺」(ほかに三縁寺、高樹院、西願寺)のひとつとされた。山号は有栖川宮職仁親王により贈られた告験山になる。
浄土宗西山禅林寺派、本尊は阿弥陀如来。 文殊菩薩は知恵の寺めぐり(京都文殊霊場)の第4番。 ◆歴史年表 江戸時代、1611年、立空上人により創建された。当初は三条大橋の東、三条縄手下ル大黒町(東山区)にあった。(寺伝) 江戸時代、1765年、有栖川宮家の祈願寺になる。有栖川宮職仁親王により山号、寺号を贈られる。(寺伝) 文久年間(1861-1864)、大名・毛利氏(長州清末、ちょうしゅう-きよすえ)の本陣になる。(寺伝) 1788年、天明の大火では焼失を免れた。 文化年間(1804-1818)、長楽寺(東山区)は、借財により養福寺に寺院を譲る。(『坊目誌』) 現代、1974年、三条京阪周辺の都市計画(バスターミナル整備)にともない、法然ゆかりの八瀬(現在地)に移転した。(寺伝) 1982年、供養塔(納骨堂)が建てられた。 ◆有栖川宮 職仁 親王 江戸時代の皇族・有栖川宮 職仁 親王(ありすがわのみや-よりひと-しんのう、1713-1769)。男性。幼称を明宮。第112代・霊元天皇第17皇子。室は二条吉忠の女・淳子。子に織仁親王。1716年、有栖川宮の第4代当主・正仁親王は嗣子なく没し、有栖川宮を相続した。1726年、親王宣下・中務卿、1749年、一品に叙せられる。歌道に優れ、桃園・後桜町・後桃園3天皇をはじめ多くに伝授した。有栖川流書道の創始者。 ◆小島 濤山 江戸時代中期-後期の暦算家・小島 濤山(こじま-とうざん 1761-1831)。男性。好謙。典膳(てんぜん)。阿波の生まれ。京都で中根流の算学、暦学を学び、陰陽家・土御門家に仕えた。兄の死に伴い私塾を継ぎ、書、算学を教えた。1830年、京都での文政の大地震により多くの被害があった。小島は「地震考」を記した。弟子・東隴庵主人が師の言葉を書き写し、小島が書き加えた。本書の中で、本震の後に大震は起きないこと。地震のさまざまな前兆、地震後の社会不安による恐慌などについて述べ、地震について正確に捉えた。著『仏国暦象弁妄』など。 墓は養福寺(左京区)にある。 ◆仏像 ◈本尊は阿弥陀如来像になる。 ◈文殊菩薩(50cm)は、極彩色であり、知恵の寺めぐり(京都文殊霊場)の4番になる。 ◆文化財 江戸時代後期、1788年の天明の大火により寺の周辺は焼失した。当寺は焼失を免れる。寺には江戸時代の画家・池大雅雅(いけの-たいが、1723-1776)の書いた「火用心」の額があり、これにより火を防いだと伝えられている。額はいまも寺に残されている。 ◆年間行事 花祭(4月8日)、水子供養(8月23日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京の福神めぐり』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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