建礼門院徳子大原西陵 (京都市左京区大原)
Kenreimonin-oharanishi-no-misasagi
建礼門院徳子大原西陵 建礼門院徳子大原西陵 
50音索引,Japanese alphabetical order   Home 50音索引,Japanese alphabetical order   Home

建礼門院徳子大原西陵の入口石段




「高倉天皇中宮 建礼門院徳子大原西陵」の石標


建礼門院徳子大原西陵


建礼門院徳子大原西陵、御陵にもかかわらず五輪の塔の仏教式の陵は珍しいという


山桜
 大原の寂光院(じゃっこういん)の境内に隣接して、「建礼門院徳子大原西陵(けんれいもんいん- おおはらにし-の-みささぎ)」がある。建礼門院陵とも称される。石段を登り詰めると視界が開け、里の山々を望むことができる。 
 歌人・与謝野晶子(1878-1942)は、この地を訪れ、「ほととぎす治了承寿水のお国母三十にして経よます寺」(『恋衣』)と詠んだ。
 近くの翠黛山(すいたいざん)麓の森中には、建礼門院に仕えた女官・阿波内侍(あわのないじ)、大納言佐局(すけのつぼね)、治部卿局(じぶきょうのつぼね)、右京大夫(うきょうのだいぶ)、小侍従局(こじじゅうのつぼね)の墓といわれるものが立つ
◆歴史年表 近代、1876年、建礼門院陵に比定された。
◆建礼門院 平安時代後期-鎌倉時代前期の第80代・高倉天皇皇后・建礼門院(けんれい-もんいん、1155/1157?-1213/1214?)。平徳子(たいら-の-のりこ)、法号は真如覚。京都の生まれ。平清盛の次女、母は二位の尼(平時子、平時信の娘)。同母兄弟に宗盛、知盛、重衡。1171年、従三位に叙され、後白河法皇(第77代)の猶子になり、高倉天皇の女御として入内した。1172年、高倉天皇の中宮になる。1178年、言仁親王(第81代・安徳天皇)を産み、1180年、国母になる。1181年、高倉天皇没後、父・清盛は徳子の後白河法皇入内を望が、徳子は抗議する。清盛も亡くなる。内裏外郭十二門の一つ、建礼門院の院号を受ける。1183年、木曽義仲の軍に都を包囲され、兄・宗盛の命により安徳天皇、三種の神器とともに京都を離れた。1185年3月、平家が源義経の軍に敗れた壇ノ浦の戦いで、徳子は母二位の尼(平時子)、幼い息子・安徳天皇とともに船団の御座船に乗船していた。源氏の船に取り囲まれ入水する。徳子のみが、源氏方の渡辺眤(むつる)に熊手で引き上げられ助かる。(『平家物語』) 。義経に連行され入洛、前権律師・実憲の里坊(洛東・吉田村)に入り、長楽寺の阿証房上人印西(印誓)を戒師として出家した。真如覚と号した。5月、戒師は大原・来迎院・本成房湛教(たんごう/たんきょう、湛斅、湛豪)ともいう。6月、花山源氏の野河の山荘(左京区吉田)に移る。9月、寂光院(貞憲入道の庵)に入る。この間、実妹・藤原隆房夫人が世話を焼いた。1186年、後白河法皇(第77代)の大原御幸があったという。3代住職・真如覚比丘尼としてこの地で6年間隠棲したという。庵室に阿弥陀三尊を安置し、祈る日々だった。
 大原、鷲尾で亡くなったともいう。境内西に庵室跡、井戸跡、墓所(建礼門院徳子大原西御陵)がある。寂光院に入寺した際の歌「思いきや深山の奥にすまいして雲居の月をよそに見むとは」。後に、洛東岡崎・善勝寺に移り亡くなったともいう。59歳?。1187年、鎌倉幕府は平宗盛旧領の摂津国真井・嶋屋両庄を贈った。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 
*参考文献・資料 『昭和京都名所図会 3 洛北』 、ウェブサイト「コトバンク」  


関連・周辺寂光院  周辺  関連    
建礼門院徳子大原西陵 京都市左京区大原
50音索引,Japanese alphabetical order  Home   50音索引,Japanese alphabetical order  Home  
  ©2006- Kyotofukoh,京都風光