建礼門院徳子大原西陵 (京都市左京区大原)
Kenreimonin-oharanishi-no-misasagi
建礼門院徳子大原西陵 建礼門院徳子大原西陵 
50音索引   Home 50音索引   Home

建礼門院徳子大原西陵の入口石段

 大原の寂光院(じゃっこういん)の境内に隣接して、「建礼門院徳子大原西陵(けんれいもんいん  おおはらにし の みささぎ)」がある。建礼門院陵とも称される。石段を登り詰めると視界が開け、里の山々を望むことができる。 
 歌人・与謝野晶子(1878-1942)は、この地を訪れ、「ほととぎす治了承寿水のお国母三十にして経よます寺」(『恋衣』)と詠んだ。
 近くの翠黛山(すいたいざん)麓の森中には、建礼門院に仕えた女官・阿波内侍(あわのないじ)、大納言佐局(すけのつぼね)、治部卿局(じぶきょうのつぼね)、右京大夫(うきょうのだいぶ)、小侍従局(こじじゅうのつぼね)の墓といわれるものが立つ
◆歴史年表 近代、1876年、比定された。
◆建礼門院 平安時代-鎌倉時代の第80代・高倉天皇皇后の建礼門院(けんれいもんいん、1155-1213/1191/1223)。徳子。平清盛の次女。母は二位の尼(平時子)。後白河法皇の子・第80代・高倉天皇の中宮になる。1178年、言仁親王(第81代・安徳天皇)を生み、国母となり、内裏外郭十二門のひとつ建礼門院の院号を受ける。1181年、高倉天皇と父・平清盛を相次いで失う。1183年、木曽義仲の軍に都を包囲され、兄・宗盛の命により安徳天皇、三種の神器とともに京都を離れた。1185年3月、平家が源義経の軍に敗れた壇ノ浦の戦いで、建礼門院は母二位の尼(平時子)、幼い息子・安徳天皇とともに船団の御座船に乗船していた。源氏の船に取り囲まれ入水する。建礼門院のみが源氏方の渡辺(むつる)に熊手で引き上げられ助かる。(『平家物語』)。義経に連行され入洛、長楽寺の阿証房上人印西(印誓)を戒師(大原・本成房湛教とも)として出家した。1185年9月、寂光院に入り、3代住職・真如覚比丘尼としてこの地で6年間隠棲したという。庵室に阿弥陀三尊を安置し、祈る日々だったという。
 大原、鷲尾(わしのお、東山区、高台寺辺)で亡くなったともいう。境内西に庵室跡、井戸跡、墓所(建礼門院徳子大原西御陵)といわれるものがある。寂光院に入寺した際の歌「思いきや深山の奥にすまいして雲居の月をよそに見むとは」。59歳、37歳、69歳で亡くなったともいう。

 
*参考文献 『昭和京都名所図会 3 洛北』 



   関連・周辺寂光院      周辺      関連          

「高倉天皇中宮 建礼門院徳子大原西陵」の石標

建礼門院徳子大原西陵

建礼門院徳子大原西陵、御陵にもかかわらず五輪の塔の仏教式の陵は珍しいという

山桜
 建礼門院徳子大原西陵 京都市左京区大原
  Home     Home  
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光