西方寺 (京都市右京区) 
Saiho-ji Temple
西方寺  西方寺
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 西方寺(さいほうじ)の山号は入逢山という。
 浄土宗西山派、粟生光明寺に属する。本尊は阿弥陀如来。 
◆歴史年表 この地、常盤は王朝時代より多くの貴族の別業が営まれた。 
 平安時代、1017年、敦明親王は皇太子を辞し、小一条院の名を与えられこの地に隠棲した。
 1051年、敦明親王没後、寺に改められた。
 鎌倉時代、正文年間(1259-1260)、1259年とも、法然の弟子・実信房蓮生師(宇都宮頼綱)が西明寺の境内に念仏堂を建て、西方寺と称した。(『京都府地誌』) 
 室町時代、1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)で仁和寺が焼失し、1671年に再建されるまで仁和寺の寺基が移されたという。
 江戸時代、1672年、盛祐(法蓮社円譽)が中興した。(『京都府地誌』) 
 安永年間(1772-1781)、現了が再興する。(『京都府地誌』) 
 近代、1932年、39世・寛空愿有が再興した。
 1940年、奈良時代の土器と平安時代-鎌倉時代の瓦が出土する。
 現代、2005年、現在の山門が建てられた。
◆敦明親王 平安時代中期の皇子・敦明親王(あつあきら しんのう、994-1051)。第67代・三条天皇の第1皇子、母は藤原せい子(せいし/じょうし、藤原済時の娘)。1006年、元服、延子(藤原顕光の娘)と結婚。1011年、父・三条天皇が践祚、親王宣下を受け、式部卿となる。三条天皇は、藤原道長の孫・第66代・一条天皇の第2皇子・敦成親王(第68代・後一条天皇)を皇太子とした。道長は三条天皇に対し譲位を迫り、1016年、退位した。三条天皇の意向により、敦明親王は後一条天皇の皇太子となる。道長は一条天皇中宮・彰子(道長の長女)の第3子・敦良親王(第69代・後朱雀天皇)を皇太子とするため圧力を加えた。1017年、三条上皇没後、道長の圧力により敦明親王は皇太子を辞退、道長は小一条院の尊号(准太上天皇)を贈り、道長娘・寛子を妃とし、以後、厚遇された。1019年、妻・延子は急死、1021年、その父・顕光も失意のうちに病没し、父娘は怨霊になり道長一族に祟り、顕光は「悪霊左府(左大臣)」と恐れられたという。1041年、敦明親王は出家した。「金葉和歌集」などに和歌がある。「雲居まで立昇るべき煙かと みえしに思いのほかにもあるかな」。  *「せい子」の「せい」は「女+城」
◆宇都宮蓮生
 平安時代後期-鎌倉時代の武将・宇都宮蓮生(うつのみや れんしょう、 1178-1259)。頼綱。実信房、宇都宮入道。宇都宮成綱の子。宇都宮5代城主、鎌倉幕府御家人。1205年、謀反の疑いにより27歳で出家、宇都宮蓮生と称した。摂津箕面・勝尾寺で法然に会い、後に証空に師事し、西山往生院の復興を行う。1227年、天台衆徒より法然遺骸を護った一人になる。藤原定家より歌を学び、定家の子息に娘を嫁がせた。二尊院近くの小倉山麓に山荘を構える。1235年、山荘障子に貼る色紙の執筆を定家に依頼し、定家は天智天皇以来の一首づつを綴り「小倉百人一首」の原型になる。1257年、三鈷寺で不断念仏を始める。西山上人13回忌の準備途中で亡くなる。
 遺言により西山上人石塔の横に蓮生の石塔を建てて供養した。現在、三鈷寺・華台廟に西山上人と共に祀られている。
◆地蔵菩薩 本堂安置の地蔵菩薩は、2007年、堀川の町内会より遷された。 厨子に銘があり、西堀川通4町の什物で、江戸時代、1786年の作になる。
一万目念仏総回向塔 境内にある回向塔は、廃寺になった長時院より移された。正面左側に「長時院」と刻まれている。江戸時代、「延宝七年(1679年)未巳三月十五日」に立てられた。左側面には「普共諸衆生往生安楽國」とある。
◆年間行事 元旦祭(1月1日)、御火焚祭(1月16日)、納涼祭(7月最終土曜日)、除夜の鐘(12月31日)。
 

*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都市の地名』、当寺のウェブサイト


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