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万寿院 〔萬福寺〕 (京都府宇治市) Manju-in Temple |
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万寿院 | 万寿院 |
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萬福寺境内の北西に塔頭・万寿院(まんじゅいん)がある。木庵性瑫(もくあん-しょうとう)が葬られている。 黄檗宗。 ◆歴史年表 江戸時代、1675年、木庵性瑫の塔所として創建された。 近代、1892年、現在の表門が建てられる。 1829年、現在の庫裏が建てられた。 ◆木庵性瑫 江戸時代前期の臨済宗黄檗宗派の渡来僧・木庵性瑫(もくあん-しょうとう、1611-1684)。俗姓は呉、黄檗木庵、諡号は慧明(えみょう)国師。明の福建省生まれ。16歳で出家、開元寺の印明に付く。1629年、得度し、後に金粟山の費隠通容に参禅した。1648年、天童山の費隠のもとへ戦乱により行けず、黄檗山の隠元隆琦に参じた。1650年、隠元の印可を受け、剣石の太平寺の住持になった。1653年、太平寺を法弟・即非如一に譲る。1654年、隠元の日本渡航を送り、象山恵明寺の住持になる。1655年、隠元に招かれ来日し、長崎・福済(ふくさい)寺の住持になる。1660年、摂津国・普門寺の隠元のもとに赴き、1661年、開創された萬福寺に入る。1662年、即非如一とともに首座になった。1664年、隠元を継ぎ萬福寺2世になり、伽藍造営した。1665年、江戸で4代将軍・徳川家綱に謁見した。1669年、将軍より紫衣を賜わる。1670年、江戸紫雲山瑞聖寺など20余寺を開創した。1680年、萬福寺・紫雲院に隠退する。萬福寺・万寿院に葬られる。著『木庵禅師東来語録』など。74歳。 門下に鉄眼、鉄牛、潮音など50余人がいる。書は黄檗三筆(ほかに隠元、即非如一)と称された。墨画「布袋蘭竹水仙菊図」なども描いた。 ◆建築 ◈「表門」は、近代、1892年に建てられる。 ◈「庫裏」は、近代、1829年にが建てられた。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都の禅寺散歩』、『事典 日本の名僧』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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