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扇塚・新善光寺跡 (京都市下京区)
Ogizuka(mound of fans),Ruins of Shinzenko-ji Temple
扇塚・新善光寺跡 扇塚・新善光寺跡 
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扇塚


【参照】五条大橋


【参照】江戸時代前期、寛永14年(1637年)の「洛中絵図」に加筆、赤線内が御影堂境内、青線内が坊舎、『京の三名橋 下 五条大橋』より、


【参照】御影堂扇子屋の看板、『京の三名橋 下 五条大橋』より


【参照】「御影堂町」の地名



【参照】「御影堂町下小路」の通り名
 五条大橋の西南詰の御影堂町(みえいどう-ちょう)付近に、かつて新善光寺(しんぜんこう-じ)といわれる寺院があった。「御影堂(みえどう)」、「五条御影堂」とも呼ばれた。後に、現在の長浜市に移転している。 
 現在は、橋の西詰北に「扇塚」が立つ。
 時宗御影堂派の本山(近世)・別格本寺(近代)、本尊は阿弥陀如来立像だった。
◆歴史年表 平安時代、824年/天長年間(824-834)、第52代・嵯峨天皇皇后・橘嘉智子(檀林皇后)の御願により、空海を開山として檀林寺を草創した。当初は真言宗であり高野山に属した。(『山城名勝志』)。その別院として、新善光寺御影堂を営んだことに始まるという。(『都名所図会』)。長野・善光寺の本尊を模した像を安置した。当初は嵯峨、また東洞院三本木(『山城名勝志』)、また、現在の御影堂町付近(『坊目誌』)にあったともいう。嵯峨天皇の御影を安置したため、一般には御影堂と呼ばれた。 
 932年/1172年、地震で被災し、西洞院五条(綾小路河東とも)に移転した。
 承安年間(1171-1175)、炎上し、東河原院に移る。(『都名所図会』)
 1178年、焼失後、祐寛が再建した。
 1184年、平敦盛が討死にし、後室・清照姫が入寺した。尼になり蓮華院如仏尼と称しその冥福を祈り扇子を作っていたという。
 鎌倉時代
、建久年間(1190-1199)、後鳥羽上皇(第82代)が疫病罹患し、如仏尼は、衵扇(あこめ-おうぎ)を作り宮中に献上したという。
 正嘉年間(1257-1259)、疫病流行し、善光寺如来の宝珠を描いた扇が諸人を救ったという。
 1284年、第88代・後嵯峨天皇の皇子・王阿上人(竹之御所)が再興し、時宗に改めたという。(『都名所図会』)。一遍に請じ中興開山とし、以来、念仏道場になる。時宗十二派の中の御影堂派の本山になる。 
 南北朝時代、14世紀(1301-1400)中期、火災で東河原別院に移転した。この時、善光寺如来を奉安し新善光寺と称した。
 室町時代、1421年、六条左女牛(佐女牛室町北)に移るともいう。(『山城名勝志』『都名所図会』)、綾小路河東に移転する。
 1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した。
 1527年、旧12月4日、焼失した。
 1528年/1529年、新町通五条町北(下京区御影町)に移る。(『山城名勝志』『都名所図会』)
 1538年、兵乱により破壊された。
 1545年、この時、別所に移転する。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、境内に坊舎多く、扇子の制作を行っていたという。(『京羽二重』)
 安土・桃山時代、1587年/1585年、豊臣秀吉の都市改造に伴い、その命により五条大橋の袂、現在地の御影堂町(下京区五条通寺町西入ル)に移る。(『山城名勝志』『都名所図会』)。坊舎15を有した。
 江戸時代、1637年、「洛中図」に境内が描かれている。
 1665年、扇について記されている。(『京雀』)
 1705年、『洛中洛外絵図』中に境内が描かれている。
 1788年、天明の大火で類焼した。
 1864年、禁門の変(蛤御門の変)で類焼した。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、以後衰微した。近代以降、時宗別格本寺になる。 
 1869年、境内の上知により、現在の御影堂町(下京区五条通寺町西入ル)が生まれる。(『坊目誌』)。境内には名物の扇屋があったという。(『京雀跡追』)
 1886年、12月23日、焼失する。
 1894年、再建された。如来堂と御影堂を一つにした。
 1870年、境内250坪(824.6㎡)に減じ、旧境内は町家・民家になった。
 1894年、西賀茂の古堂を移している。扇を折り業とする家が数軒あり、名物であると記されている。(『新撰京都名所図会』)
 昭和期(1926-1989)初期まで、御影堂の縁日では様々な夜店が開き、京の風物の一つになっていた。
 1945年、3月、太平洋戦争(1941-1945)中、五条通拡張の建物疎開に伴い、堂舎は解体された。滋賀県・浄信寺(木之本地蔵)に宝物などが移されたという。8月、御影堂町より木之本町(現・長浜市西上坂799番)に移転した。
 現代、1960年、3月15日、五条大橋西北詰に扇塚が立てられる。
◆橘 嘉智子 奈良時代-平安時代前期の女性・橘 嘉智子(たちばな-の-かちこ、786-850)。檀林皇后(だんりん-こうごう)。京都の生まれ。父・贈太政大臣・橘清友(たちばな-の-きよとも)、母・贈正一位田氏。809年、第52代・嵯峨天皇の親王時代に妃になる。?年、業良(なりよし)親王、809年、正子(まさこ)内親王(第53代・淳和天皇皇后)、810年、正良(まさら)親王(第54代・仁明天皇)を産む。815年、嵯峨天皇の皇后になる。817年、秀良(ひでなが)親王を産む。823年、嵯峨天皇は譲位し、仁明天皇が即位した。皇太后になり冷然院(冷泉院)、嵯峨院に住む。836年頃、仏教を深く信仰し、唐の禅僧・義空(ぎくう)を招き、禅院檀林寺を創建した。日本で禅が唱えられた初めという。檀林皇后とも呼ばれた。842年、嵯峨天皇の死後、太皇太后になる。伴健岑(とも-の-こわみね)、橘逸勢(たちばな-の-はやなり)らが謀反を企てたとして流罪になり、仁明天皇の皇太子・恒貞(つねさだ)親王が廃された。藤原良房の陰謀とされ、事件後、良房の甥・道康(みちやす)親王が皇太子になる。この承和(じょうわ)の変に嘉智子も関わったという。844年-847年頃、兄・橘氏公(うじきみ)とともに、橘氏の教育のために学館院を設立した。
 橘氏としては最初で最後の皇后になり、皇太后、太皇太后として勢威を振るう。仏教を深く信仰し、唐の五台山に僧慧萼(えがく)を遣わし仏具の宝幡(ほうばん)、繍文袈裟(しゅうもんげさ)などを寄進したという。梅宮大社を井手より遷し、橘家の氏神として祀ったという。
 嵯峨院で亡くなる。65歳。遺言により薄葬とされた。深谷山陵(嵯峨陵)(右京区)に葬られた。
◆清照姫 平安時代後期の清照姫(?-?)。詳細不明。女性。玉織姫。蓮華院(生一房)如仏尼、蓮華院尼。武士・平敦盛(1169-1184)の後室になった。剃髪し、蓮華院尼と称した。1184年、敦盛が一の谷の戦で討死後、清照姫は入寺し剃髪し、尼になり蓮華院(生一房)如仏尼と称した。祐寛を頼り、御影堂の傍に庵を結んだ。敦盛の冥福を祈り扇子を作っていたという。
◆祐寛 平安時代後期の僧・祐寛(ゆうかん、?-?)。詳細不明。男性。祐寛阿闍梨。1178年、御影堂の焼失後、再建したという。1190年頃、滋賀県安曇川辺で真竹造成していたともいう。
◆王阿 鎌倉時代後期の皇族・時宗の僧・王阿(?-1305)。詳細不明。男性。竹之御所(竹御所)。父・第88代・後嵯峨天皇、母・按察局の皇子。正応年間(1288-1293)、隠遁していた時、一遍の京都巡教の際に師事し、勝法院王阿弥陀仏(王阿)と称した。また、心地覚心の仲介で一遍に師事したという。1284年、新善光寺の住持になり中興した。以来、寺格が高くなる。
◆仏像 ◈本尊「阿弥陀如来」は、安阿弥作だったという。
 ◈木造「地蔵菩薩半跏像」(重文)は、鎌倉時代の安阿弥快慶(?-?)作という。現在は、京都国立博物館寄託。
 ◈脇檀には一遍自作という一遍立像、王阿上人立像を安置していた。
◆文化財 かつて、『一遍上人絵伝(御影堂本) 』を所蔵していた。
 当寺がかつて、六条道場歓喜光寺に隣接し、『絵伝』を借り受け複写したという。近代に流出し、前田侯爵家を経て尊経閣文庫(東京都)にも移された。
◆新善光寺・御影堂 ◈14世紀(1301-1400)中期に、善光寺如来を奉安したため寺号「新善光寺」と称したという。
 ◈「御影堂」と俗称されたのは、本堂に奈良時代-平安時代前期の第52代・嵯峨天皇(786-842)の御影を安置したためともいう。
◆扇・新善光寺 橋の西詰北にある「扇塚」は、京都扇子団扇商工協同組合により、現代、1960年に立てられた。日本の扇はこの地が発祥の地とされる。五条界隈には多くの扇職人が住んだという。
 平安時代後期、平敦盛(1169-1184)の室(?-?)は、夫の討死後にその菩提を弔うため出家し、蓮華院尼と称した。五条西詰にあった時宗御影堂に入り、寺の僧と共に扇子を作ったという。扇は「阿古女扇(あこめ-おうぎ)」と呼ばれ、衵扇(あこめ-おうぎ)とも書かれた。
 鎌倉時代前期、1190年頃に、祐寛(ゆうかく、?-?)はその用のために安曇川沿岸で真竹の造成をおこなったという。建久年間(1190-1199)、後鳥羽上皇(第82代、1180-1239)が疫病罹患し、如仏尼は、直ぐに衵扇(あこめ-おうぎ)を作った。祐寛とともに仏前に奉り、扇1本を宮中に献上したという。ほどなく上皇の病が平癒したため、天皇は御影堂扇に「久寿扇(くずの-おうぎ)」という勅命をつけた。久寿とは、さつきの薬五の名に因むという。 古くより薬五の風に当たると百病を除くとされた。以来、夏の日に、天子の御座近くにこの扇を掛けるのが宮中の年中行事になった。また、毎年1月に御影堂から宮中に参内し、扇を献上した慣わしは、明治維新まで続き宮中行事になったという。なお、平安時代-室町時代に、新善光寺付近には、扇の制作・販売した職業集団の「御末広師(おすえ-ひろし)」が集ったという。
 衵扇は、平安時代に宮廷女性が正装に用いた扇をいう。男性の檜扇(ひおうぎ)に対し、衵姿の宮廷女房が礼装の際に用いた檜扇になる。その名は衵姿(あこめ-すがた)の童(わらわ)の所用による。ヒノキ・杉の薄板を彩糸(いろいと)で閉じた。表裏に極彩色で吉祥文様を表現し、山水・草木・瑞鳥・人物などを金銀泥絵(でいえ)を描き、切り箔・砂子などを散らした。近世(安土・桃山時代-江戸時代)に入り、板の数は39枚と定められ、親骨上部に糸花を付け、彩糸の余りを長く垂らした。そのもとに松・梅・橘などの糸花飾りを付けていた。飾り金具も加わり、「大翳 (おおかざし)」 と呼ばれる。
 第88代・後嵯峨天皇(1220-1272)が病の際に、寺の住職・祐寛は、呪文を封納した扇を献上した。天皇の病が平癒したことから、扇は世に知られたという。
 鎌倉時代中期、1248年に、疫病が流行し、後嵯峨天皇皇子・竹之御所(王阿、?-?)が罹患した。蓮華院尼は祐寛の祈願した阿古女扇を贈り、それで扇ぐと熱が直ぐに消えた。鎌倉時代後期、1284年、竹之御所は剃髪して王阿と称し寺を再興した。(『都名所図会』)。寺格は高くなり、宮中においても特別の扱いをされた。寺の諸坊は半僧半俗の姿になり、宮中・公家・武家の用を行い、扇を広く売り出すようになった。以来、寺中の尼が扇を作るようになったという。
 中世(鎌倉時代-室町時代)以来、寺の僧は「御影堂扇(みえどう-おうぎ、阿波祈り)」を折った。鎌倉時代には、寺の周辺に塔頭が多数存在し、副業として「御影堂扇」を作り販売していたという。室町時代には都の名物になる。 
 南北朝時代、鷹司通(下長者町通)の駒井氏は「城殿扇(きどの-おうぎ)」を制作し、名が知られた。その近くに、真言宗の新善光寺御影堂(春日東洞院)があったという。寺では、駒井氏に扇の技術を学び、寺の僧尼が扇を製造していたともいう。(『雍州府志』)
 安土・桃山時代、1587年/1585年、豊臣秀吉の都市改造に伴い、その命により五条大橋の袂、現在地の御影堂町(下京区五条通寺町西入ル)に移る。境内は1900坪(6280㎡)あり、坊舎15(珠阿弥・宣阿弥・祐阿弥・文阿弥・来阿弥・一阿弥・持阿弥・善阿弥・乗阿弥・重阿弥・林阿弥・庭阿弥・直阿弥・竜阿弥など)を有した。各坊で僧は妻帯しており、寺内の婦女子も含め扇を作成した。扇は品質優秀で、丈夫で長持ちし「御影堂の製におよばず」とされた。
 安土・桃山時代、寺門前の町人も扇を製造したため、製造差止が命じられたという。江戸時代前期には、庶民の女房らも扇を作っていた。(『京雀』)。江戸時代中期の『京町鑑』に、御影堂前町に扇を売る商人があり、「御影堂扇」と呼ばれたと記している。江戸時代前期、1637年の「洛中絵図」には、鴨川の西に八幡宮が描かれ、それに隣接し御影堂が記されている。境内は南北に細長く、周囲を多くの坊舎が囲んでいた。
 近代、維新後も第122代・明治天皇(1852-1912)は1868年-1869年の戊辰戦争時に軍扇として使用した。明治期(1868-1912)まで、新善光寺の僧が扇を制作していたという。1894年には、五条通寺町西に扇を折り業とする家が数軒あり、名物になっていたと記されている。(『新撰京都名所図会』)
◆碑・町名 御影堂の旧境内は、河原町五条東入ル、西南詰の現在のガソリンスタンド付近(南橋詰町)だったという。
 ◈現代、1960年3月15日に、京都扇子団扇商工協同組合は、五条大橋西北詰の植込みの中に扇塚を建立している。花崗岩類(御影石)、土台は班れい岩になる。
 ◈旧地の周辺には御影堂町(みえいどう-ちょう)、御影堂前町(みえいどうまえ-ちょう)、御影堂下小路(みえどう-しもこうじ)の地名・通り名が残されている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都市の地名』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都大事典』、『都名所図会』、『京都はじまり物語』、『京都 歴史案内』 、『京の三名橋 下 五条大橋』、ウェブサイト「神殿大観」、ウェブサイト「国際日本文化研究センター」、「鈴木扇子店」、ウェブサイト「コトバンク」


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