般若寺跡・般若寺稲荷 (京都市右京区)
Site of Hannya-ji Temple,Hannya-ji-inari Shrine
般若寺跡・般若寺稲荷 般若寺跡・般若寺稲荷 
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井水



裏山



【参照】鳴滝(右京区鳴滝蓮池町)
 鳴滝般若寺町に、平安時代中期に開かれた般若寺(はんにゃ-じ)があった。寺は白砂(しらすな)山山麓、井出口川(三宝川)西岸にあり、山号は五台山といった。名刹として知られ殿上人が集ったという。現在は、山裾に般若寺稲荷という小祠だけが祀られている。  
 古儀真言宗御室派。 
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、この地には、参議左大弁・大江音人(おおえ-の-おとんど、811-877)の山荘があったという。
 延喜年間(901-923)、大江音人の子、檀主・大江玉淵(たまぶち)は、観賢(かんけん)僧正を請じ、開山とし創建したという。(『山州名跡志』)。当初は山岳寺院であり、白砂山山頂、山麓に伽藍が配されていたという。金堂の西南に僧坊が新築された。その後、大江氏一族の菩提寺になる。
 10世紀(901-1000)、大江氏、藤原氏の小野宮家が有力な施主になる。実頼(さねより、900-970)、実資(さねすけ、957-1046)の時、最盛期になる。
 968年、太政大臣・藤原実頼が第62代・村上天皇陵への参詣の際に、当寺に立ち寄り参拝した。(『日本紀略』)
 971年、藤原道綱の母は、突然に自邸を飛び出し、幼子・道綱を伴い当寺に参籠した。般若寺は、「西山に、れいのものする寺あり」と記されている。周囲になだめられ、20日ほどで山を下りる。(『蜻蛉日記』)
 1011年、藤原道長は、霊所七瀬で祓を行い、その際に当寺近くの滝でも行う。(『御堂関白記』)
 1016年、施主・小野宮実資は、大仏(大日如来?)を禅林寺に遷した。
 1017年、第64代・円融天皇中宮・藤原遵子が、当寺の艮(うしとら、東北)で火葬にされたという。(『日本紀略』)
 1018年、藤原実資の姉も般若寺跡で荼毘に付された。
 11世紀(1001-1100)中頃、性信法親王(1005-1085)により隆盛する。
 江戸時代、寛永年間(1624-1644)初年、1676年とも、京都の富商・端氏により寺は再興される。本尊・文殊菩薩、阿弥陀堂に阿弥陀三尊を安置したという。(『京羽二重織留』『山州名跡志』『都名所図会』巻6)
 1787年、境内が描かれているという。(『拾遺都名所図会』)
 近代、1868年、廃絶した。
◆大江音人 平安時代前期の公卿・学者・大江音人(おおえ-の-おとんど/おとひと、811-877) 。男性。父・阿保親王の王子/備中権介・大枝本主の長男(養子とも)。菅原清公に学び、文章生、東宮学士になる。864年、大枝から大江に改姓し、江家(ごうけ)の祖、江相公(ごうしようこう)と称された。同年、参議。左大弁、勘解由長官などを兼ね、従三位左衛門督に進む。学者として「通儒」と称され、第56代・清和天皇に『史記』を進講した。『貞観格式』の撰定に加わり、『文徳実録』『弘帝範』『群籍要覧』なども編纂した。842年、承和の変に連座し、尾張に配流、2年後に帰京したともいう。877年、南淵年名(みなふち-の-としな)が行った賀寿の詩会「尚歯会」に加わる。67歳。
◆観賢 平安時代前期-中期の真言宗の僧・観賢(かんげん/かんけん、854/853-925)。男性。俗姓は秦氏/伴氏、通称は般若寺僧正。讃岐国(香川県)の生まれ。872年、真雅(空海の実弟)の許で出家・受戒した。東寺の聖宝より三論・真言密教を学び、895年、灌頂を受けた。900年、仁和寺別当になる。弘福寺別当・権律師になり、延喜年間(901-923)、東寺長者・法務・検校を歴任・兼任した。919年、醍醐寺初代座主(ざす)・金剛峰寺座主になった。空海への諡号を賜るために朝廷に働きかけ、921年、空海に諡号「弘法大師」を得て、後の大師信仰に道を開く。923年、権僧正に任じられる。著『大日経疏鈔』。72歳。
 事相(密教修法)・教相(密教理論)に通じた。分裂しかけた真言宗を東寺中心に統合し、天台密教に対抗した。般若寺を創建した。最澄(伝教大師)に先を越された空海のために、諡号を朝廷に奏請した。空海が唐から請来した『三十帖冊子』を東寺の経蔵に納めている。
 延喜年間(901-923)、般若寺を創建した。朝廷に奏請し、空海に弘法大師の諡号を賜った。空海が唐より請来した「三十帖冊子」を東寺の経蔵に納め、代々の真言宗長者の相承とした。
◆大江 玉淵 平安時代前期の貴族・大江 玉淵(おおえ-の-たまふち/たまぶち、 ?-?)。詳細不明。父・学者・大江音人の2男。大江朝綱の父。歌人・遊女の白女(しろめ)を養女としたという。兵部少丞、886年、従五位下に叙され、式部大丞より日向守に転じた。従四位下に叙されたともいう。
◆藤原 道綱 母 平安時代中期の歌人・日記作者・藤原 道綱 母(ふじわら-の-みちつな-の-はは、936?-995)。女性。倫寧女(ともやすのむすめ)、道綱母、傅大納言母(ふのだいなごんのはは)、傅殿母(ふのとののはは)。父・藤原倫寧(ともやす)、母・主殿頭・藤原春道の娘/刑部大輔・源認(みとむ)の娘。異母弟・歌人・長能(ながよし)、姪・菅原孝標女。954年、19歳で右大臣・藤原師輔の3男・藤原兼家と結婚する。兼家にはすでに正妻・時姫がいた。955年、道綱(後の大納言右大将)を産む。967年、兼家邸近くに移る。971年、西山の寺に長く籠り、兼家により連れ戻される。973年、中川(中河)に移る。974年、兼家の通いが絶え身を引く。986年、内裏歌合に道綱の代作を出詠した。60余歳?。
 「中古三十六歌仙」の一人、後に「本朝三美人」の一人。夫に疎んじられた20年の歳月を綴る自伝的『蜻蛉(かげろう)日記』(954-974)の作者として知られる。平安時代に家庭にあった女性による文学の代表的作品の一つであり、後の『源氏物語』につながる。家集『道綱母集』、『拾遺和歌集』、『小倉百人一首』に入集。夫に見捨てられ、伏見稲荷、石山寺、賀茂神社、鳴滝・般若寺などに参籠したという。
◆藤原 遵子 平安時代中期の女性・藤原 遵子(ふじわら-の-じゅんし/のぶこ、957-1017)。女性。弘徽殿(こきでんの)女御、四条中宮、子がなく「素腹の后」とも呼ばれた。父・藤原頼忠、母・代明親王の娘・厳子女王。978年、第64代・円融天皇に入内し、女御宣下を受ける。982年、皇后、中宮を称した。990年、皇后宮になる。997年、出家し、1000年、皇太后、1012年、太皇太后になった。61歳。
 深く仏教に帰依し、諸々の供養を行う。般若寺艮地で葬送された。
◆般若寺伽藍 般若寺の伽藍は、白砂山の山上、山麓に配置されていた。現在の稲荷祠のある地点より、山側尾根筋に阿弥陀堂、さらに上には御堂があった。右手の低い谷筋には本堂が建てられていたとみられる。金堂の西南に僧房などがあり、殿上人が集った。
◆文学  ◈平安時代中期-後期の儒者・歌人・大江匡衡(まさふさ、952-1012)は、般若寺を訪れ『江吏部集』上巻に「先祖相伝ふるところの善地」と記している。
  ◈『今昔物語』19巻に、寺で度々詩会が催されていたと記されている。
  ◈平安時代中期の藤原道綱母(936?-995)は、夫との愛情問題から当寺を訪れている。971年に「身一つのかく鳴滝を尋ぬればさらに返らぬ水も澄にけり」(『蜻蛉日記』中)と詠んでいる。
  ◈平安時代中期の歌人・歌学者・藤原公任(966-1041)も訪れている。『本朝麗藻』下巻。
◆鳴滝 鳴滝(鳴滝蓮池町)は、高雄山麓より流れ下る鳴滝川にある。小さな滝であり、滝音が鳴り響くことから滝の南側で鳴滝と呼ばれ、地名の由来にもなっている。
 平安時代以降、七瀬の祓えが行われた霊所であり、天皇の災禍を負わせた人形を七人の勅使の手で加茂七瀬などで流していた。七瀬とは、西瀧(鳴滝)のほか、耳敏川(みみとがわ)、川合(かわい)、東瀧、松崎(まちがさき)、石影(いわかげ)、大井川があった。
 歌枕になった。藤原道綱母は般若寺に参籠し、鳴滝を「身一つのかく鳴滝を尋ぬればさらに返らぬ水も澄にけり」(『蜻蛉日記』中)と詠んでいる。


*非公開。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『平安京散策』、『京都大事典』、『京を彩った女たち』、『京都まちかど遺産めぐり』、『平安の都』、『昭和京都名所図会 4 洛西』 、ウェブサイト「コトバンク」 
 
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