小野蘭山顕頌碑 (京都市左京区)
The stone monument of Ono, Ranzan
小野蘭山顕頌碑 小野蘭山顕頌碑 
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「小野蘭山顕頌碑」


肖像「蘭山翁画像」、画・谷文晁、碑より


キブネギク図 (『花彙』小野蘭山・島田充房著)、碑より
 京都府立植物園内の芝生の東端に、「小野蘭山顕頌碑」が立つ。江戸時代の本草学者(薬用植物学者)・小野蘭山は、「日本の自然誌研究の創始者」といわれている。
◆歴史年表 江戸時代、1810年、小野蘭山が亡くなった。
 現代、2010年、小野蘭山没後二百年記念事業会により、京都府立植物園内に「小野蘭山顕頌碑」が建立された。
◆小野蘭山 江戸時代中期-後期の本草学者・小野蘭山(おの-らんざん、1729-1810)。職博(もとひろ)。姓は佐伯、名は職博・道敬、字は以文、通称喜内、別号に朽匏子・衆芳軒など。京都桜木町(上京区)に生まれる。家は朝廷に仕える地下(ぢげ)で、父は主殿大丞兼伊勢守職・茂。11歳で、中国の本草書『秘伝花鏡』を書写したという。13歳で、父の師・松岡恕庵に本草学(薬用植物学)を学ぶ。1746年、師が没し、以後、独学で本草学を学ぶ。虚弱により仕官を諦め、25歳で、私塾・「衆芳軒(しゅうほうけん)」(夷川通河原町上ル)を開く。本草学、後に博物学を教えた。塾は4度移転し、1788年、天明の大火により焼失、西の門人・吉田立仙宅(間之町通丸太町下ル大津町西側)に移る。1766年、東山・也阿弥で物産会(薬学会)を開き400種以上を展示する。1799年以降、10年間、幕命により江戸・医学館で講義した。御納戸格、30人扶持になる。1801年-1805年、諸国で6回の植物採集をした。1802年、一時京都に戻り、1803年、『本草綱目』を講義した。日本本草学の集大成である口授『本草綱目啓蒙』全48巻(1803-1806)を刊行した。 島田充房との共著、植物図譜『花彙』(1759-1765)は海外でも高い評価を受けた。
 午後8時就床、午前1時に起床し机に向かった。植物採取以外に外出せず、庭に珍草異木を植え、春秋に塾生ら山野で採薬した。江戸で死去、墓は浅草・誓願寺・迎接院にある。82歳。
 門人は全国に1000人あり、文人画家・本草学者・蔵書家・木村蒹葭堂(きむら-けんかどう、1736-1802)、本草学者・岩崎灌園(いわさき-かんえん、1786-1842)、本草家・水谷豊文(1779-1833)、16歳より蘭山に師事した京都の本草家・医師・山本亡羊(1778-1859)、「リンネ」の植物分類法を初採用した草木図説出版の医家・本草学者・飯沼慾斎(いいぬま-よくさい、1782-1865)、津山藩医・蘭学者・宇田川榕庵(うだがわ-ようあん、1798-1846)、「雄しべ」「花粉」などを造語した理学博士・伊藤圭介(1803-1901)らがいる。蘭学医・杉田玄白(1733-1817)、画家・谷文晁(1763-1841)らの名もある。
 ドイツの医師・博物学者・シーボルト(1846-1911)は、蘭山を「東洋のリンネ(分類学の父)」と賞賛した。

 
*参考文献・資料 碑文、『増補版 京の医史跡探訪』、『京の医学』、『京都大事典』、『京都隠れた史跡100選』、『若冲の花』、『若冲への招待』 、ウェブサイト「コトバンク」


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小野蘭山顕頌碑 〒606-0823 京都市左京区下鴨半木町(京都府立植物園内)
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