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金牛院 〔妙心寺〕 (京都市右京区) Kingyu-in Temple |
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金牛院 | 金牛院 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 庫裡 ![]() 庫裏、煙り出し ![]() ツバキ ![]() 花園霊堂 ![]() 花園霊堂 |
妙心寺境内の北に塔頭・金牛院(きんぎゅういん)はある。 臨済宗妙心寺派。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 江戸時代、元和年間(1615-1624)、妙心寺境内に創建された松濤庵(しょうとうあん)を前身とするともいう。(『正法山誌』) 1650年、金牛院は環陵(かんりょう)を開祖として創建された。当初は北総門外の谷口(たにぐち)村(右京区谷口)にあったともいう。 1685年、金牛院は境内塔頭だったともいう。(『京羽二重』) 近代、1878年、妙心寺境域内の万猷院(ばんゆういん/まんゆういん)に併合され現在地に移る。(「寺院明細帳」) 1883年、院号の万猷院を金牛院に改める。 ◆環陵 江戸時代前期の僧・環陵(かんりょう、 ?-?)。詳細不明。1650年、妙心寺塔頭・金牛院の開祖。 ◆鋼峰良 江戸時代前期の僧・鋼峰良(こうほうりょう、?-?)。詳細不明。1627年、塔頭・万猷院を創建。 ◆湛月紹円 江戸時代前期の僧・湛月紹円(たんげつ しょうえん、1607-1671/1672)。大虚霊光(たいきょ れいこう)禅師。1622年、妙心寺塔頭・松濤庵中興、1636年、大坂・大仙寺住持、1653年、妙心寺塔頭・慈雲院を開創した。1654年、妙心寺194世、1661年、妙心寺に再住した。泉州住吉・龍源寺、大坂・天瑞寺の開山になる。 文筆、和歌に優れ、道歌百人一首中に選。黄檗隠元と詩文により交流する。 ◆山上伊太郎 近代の脚本家・映画監督・山上伊太郎(やまがみ-いたろう、1903-1945?)。京都市生まれ。大津市の父のもとに引き取られ、旧制小学校卒業後、県庁に給仕として勤めた。1923年、東亜キネマ設立により脚本部研究生として等持院撮影所に入社スル。1926年、仁科熊彦監督『帰って来た英雄 前篇・後篇』で初脚本。1926年、マキノプロダクションに移籍し、無声映画の1927年、マキノ雅弘監督、三木稔撮影の『浪人街』、1928年、『首の座』で脚本を書き、『キネマ旬報』誌のベストワンニなる。1929年、マキノプロが倒産し、1932年、片岡千恵蔵プロダクションに移り、1934年、嵐寛寿郎主演の『兵学往来髭大名』で初監督するが失敗した。日活京都撮影所で脚本を書く。1942年、戦時下の大映への統合で失職する。1943年、陸軍軍属報道班としてフィリピンへ赴任した。1945年頃、フィリピン・ルソン島で行方不明になった。43歳。 その死を悼み、1945年、金牛院内に「伊太郎地蔵」が安置された。 ◆建築 「聖牛祠堂」がある。日本画家・杉本哲郎(1899-1985)が設計した。古代インドグプタ式窟院を模している。石材は南インド産になる。 堂内に飯野弘清作の「牛像」が安置されている。 ◆慈雲院 塔頭・慈雲院は、江戸時代、1653年、湛月紹円(たんげつ-しょうえん)により建立された。開基は大坂の橘屋新兵衛による。かつて妙心寺北門前にあり、慈雲庵と称していた。1878年、山内の現在地(盛岳院跡)に移転した。その際に、松濤庵、大森・寿仙寺を合併している。 ◆松濤庵 塔頭・松濤庵は江戸時代、1622年、大坂の檀越・河崎屋宗興により、湛月紹円を中興の祖とした。 ◆万猷院 塔頭・万猷院は鋼峰良(こう-ほうりょう)を開祖とし、江戸時代、1627年に創建された。 ◆地蔵尊 「伊太郎(いたろう)地蔵」が安置されている。近代の脚本家・映画監督・山上伊太郎の死を悼み安置された。 *非公開 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『妙心寺』、『妙心寺 六百五十年の歩み』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『京都シネマップ 映画ロマン紀行』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() |
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