蟠桃院 〔妙心寺〕 (京都市右京区)
Hanto-in Temple
蟠桃院 蟠桃院 
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 妙心寺境内の北部に塔頭・蟠桃院(はんとう-いん)がある。武将・前田玄以、武将・伊達政宗と所縁がある。
 臨済宗妙心寺派。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1601年、武将・前田玄以は、一宙東黙(いっちゅう-とうもく)を開山として創建した。
 1602年、玄以は亡くなり、当院に葬られる。
 以後、2世・雲居希膺(うんご-きよう)が引き継ぐ。玄以の女婿で武将・堀尾忠氏、武将・稲葉貞通が外護した。武将・伊達政宗も当院の檀越になる。
◆一宙 東黙 安土・桃山時代の僧・一宙 東黙(いっちゅう-とうもく、?-?)。詳細不明。男性。本源自性禅師。父・稲葉一鉄(良通)。利休七哲の一人・牧村利貞(稲葉重通の子)の弟。東海派下独秀(どくしゅう)門派の柏堂景森(はくどう-けいしん)に参じ、その嗣・虚庵慧洪(きあん-えこう)を嗣ぐ。妙心寺79世。1583年、妙心寺・雑華院、1601年、蟠桃院を創建した。
 弟子に夬室智文(かいしつ-ちもん)がいる。
◆前田 玄以 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・前田 玄以(まえだ-げんい、1539-1602)。男性。名は宗向、孫十郎基勝、号は半夢斎、策勝軒。美濃(岐阜県)の生まれ。父・前田基光。村井貞勝の娘婿。比叡山で出家し、尾張・小松寺の僧になる。織田信長臣下になる。1575年、信長の嫡子・信忠付の近習になった。1579年、信長の命で信忠の家臣になる。1582年、本能寺の変で信忠が自害し、その嫡男・三法師(秀信)とともに岐阜に逃れ清須に赴き保護した。この功により、1583年-1600年、信忠の弟・信雄より京都奉行に任じられる。以後、17年間在職し禁裡御用地・門跡領・寺社領管理などを行う。この間に朝廷から「徳善院」の称号を授かった。1584年、豊臣秀吉に仕え、右筆(ゆうひつ)ともいう。その信厚く、1585年、丹波亀山5万石を給される。1588年、第107代・後陽成天皇の聚楽第行幸で奉行、寺社奉行で当初はキリシタンを弾圧した。1595年、豊臣秀次の問責に当たり、妻妾を亀山に預った。1598年、豊臣政権下五奉行の1人に任じられた。同年、秀吉没後、徳川家康と石田三成の対立では三成方に属した。1600年、秀吉没後、遺骸を伏見城から阿弥陀ヶ峰に密かに葬送した。豊国社造営の普請奉行を務める。家康を討つよう長束正家・増田長盛らと諸大名に命じた。関ヶ原の戦は西軍に与し、大坂城に居り参戦しなかった。東軍・徳川方に通じ、戦後、京都所司代の職は解かれる。金剛寺(河内長野)に謹慎になり、家康に許され丹波亀山の本領安堵、初代藩主になる。64歳。
 故事・典例・故実に通じ、千利休に茶を学んだ。秀吉の京都屋敷(妙顕寺城)の普請奉行になる。留守役を預かる。
 墓は妙心寺・蟠桃院(右京区)、専念寺(左京区)にある。法名は「徳善院殿天涼以公大居士」になる。
◆雲居 希庸 安土・桃山時代-江戸時代前期の臨済宗の僧・雲居 希膺(うんご-きよう/けよう、1582-1659)。男性。慈光不昧禅師。大悲円満国師。伊予国(愛媛県)上三谷の生まれ。東福寺・永明院を経て、妙心寺・蟠桃院の一宙東黙に学ぶ。蟠桃院で出家中の武将・塙直之に出会い、1614年、大坂冬の陣に加わり捕えられる。赦免後、妙心寺に戻り一宙の法を嗣ぐ。蟠桃院の檀越に伊達家を迎えた。若狭小浜、摂津勝尾山に隠棲、後水尾上皇(第108代)の帰依を受ける。1636年、伊達政宗の子・忠宗の外護により、松島・瑞巌寺(ずいがん-じ)の中興開山になる。1645年、妙心寺153世になった。78歳。
伊達 政宗 室町時代後期-江戸時代前期の武将・伊達 政宗(だて-まさむね、1567-1636)。男性。出羽国(山形県・秋田県)の生まれ。父・伊達家16代当主・輝宗。幼くして、疱瘡により右目を失明し、後に「独眼竜政宗」とも呼ばれた。1584年、家督を相続し、17代当主になる。1589年、磐梯山麓・摺上原戦、1593年、朝鮮侵攻の文禄の役で、晋州城を落す。なお、この出陣上洛の際、伊達軍の戦装束は絢爛豪華としたものであり、都人は驚嘆し、以後、派手な装束の者を「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになったという。1600年、関ヶ原の戦いに加わる。1613年、支倉常長を遣欧使節としてローマに派遣した。1614年、大坂冬の陣、翌1615年大坂夏の陣にも加わった。豊臣秀吉、秀頼、徳川家康、秀忠、家光と歴代に仕えた。1626年、権中納言に任ぜられる。70歳。
◆堀尾 忠氏 安土・桃山時代-江戸時代前期の武将・堀尾 忠氏(ほりお-ただうじ、1577-1604)。男性。父・後の豊臣家三中老・堀尾吉晴の次男/長男。正室は前田玄以の娘。1590年、兄没後世子になる。1599年、父隠居に伴い、遠江浜松12万石を相続する。1600年、関ヶ原の戦いで、家康方の東軍に与し、前哨戦の武功により出雲松江24万石に加増転封、2代藩主になる。病死した。27歳。
 墓は妙心寺・春光院にある。
◆稲葉 貞通 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・稲葉 貞通(いなば-さだみち、1546-1603)。男性。父・稲葉一鉄(良通)、母・三条西公条の娘の長男。1579年、父より譲られ美濃曾根城主、織田信長に仕え各地を転戦した。1582年、本能寺の変後、父と共に豊臣秀吉に属し、伊勢攻め、九州攻めに従う。1588年、郡上八幡城に移り、羽柴郡上侍従と呼ばれた。1600年、関ヶ原の戦で西軍に属し、尾張犬山城に籠った。同年、織田秀信の岐阜城落城後、徳川家康に降服する。伊勢長島攻め、近江水口城攻めの戦功により豊後臼杵5万石に転封、臼杵城主、初代臼杵藩主になった。
 南化玄興(なんか-げんこう)に帰依し、美濃・華渓寺、智勝院を開基した。58歳。
◆大石 無人 江戸時代前期-中期の武士・大石 無人(おおいし-むじん、1627-1712)。男性。父・赤穂藩浅野氏家臣・大石信云の長男。弟に大石信澄。1645年、父より家督を継いだのは弟だった。赤穂藩に仕え、1666年、藩を離れた。1701年、赤穂藩主・浅野長矩の刃傷事件後、吉良邸討ち入り計画に際し浪士への資金援助、吉良邸動向をさぐる。討ち入りの際に、子・良穀と共に邸外の見張りをしたともいう。後に浪士遺品を預かったとされる。
 蟠桃院に葬られた。法名は「寂照院三性道句」。86歳。
◆指津 宗琅 江戸時代中期の僧・指津 宗珢(ししん-そうこん、?-1786)。詳細不明。男性。白隠の弟子。幡桃院8世。画家・円山応挙が参禅し、応挙に画を習う。61歳。 
◆建築  ◈「玄関」は、安土・桃山時代の建立による。創建時のものという。また、かつて聚楽第にあり、移されたともいう。(『正法山誌』『都林泉名勝図絵』)。左甚五郎(1594-1651)作といわれる彫刻がある。
◆文化財  ◈堂に「伊達政宗夫妻像」が安置されている。政宗は甲冑を身に付け、傍らで夫人は坐している。
  ◈安土・桃山時代、1602年、南化玄興の賛ある「前田玄以像」がある。
  ◈一宙東黙の賛がある前田玄以夫人の寿像「永福院殿像」。一宙東黙「遺偈」。
  ◈江戸時代前期、1638年の雲居希膺の自賛「雲居禅師像」、雲居希膺賛の「崖上安息図」、雲居希膺筆「臥輪禅師偈」「慧能大師偈」。雲居希膺「遺偈」。快川紹喜筆「柏堂道号」。
  ◈円山応挙(1733-1795)筆ともいう白隠(斯経)(1686-1769)の賛ある当院住持「指津宗珢像」。
◆庭園 江戸時代後期、1799年の『都林泉名勝図絵』には、「当院の林泉は奇石奇岩多し」と記され名庭とされていた。
◆墓  ◈前田玄以、玄以の娘・長松院殿(石川忠総の継室)、玄以の妻・永福院殿(村井貞勝の娘)の五輪塔3基が立つ。
  ◈大石無人の墓がある。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『妙心寺』、『妙心寺 六百五十年の歩み』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『京都大事典』 、『京都戦国武将の寺をゆく』、ウェブサイト「コトバンク」


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蟠桃院  〒616-8035  京都市右京区花園妙心 寺町51  075-463-3657
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