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鳥居本八幡宮 (京都市右京区) Toriimoto-hachimangu Shrine |
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鳥居本八幡宮 | 鳥居本八幡宮 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 拝殿 ![]() 本殿 ![]() 本殿 ![]() 稲荷社?、左に八房大明神 ![]() 国分大明神 ![]() 右より玉岡大明神、玉姫大明神、福魔?大明神、不明の石標。ほかに山肌に八嶋大明神、玉光大明神、白玉大明神などの石標が立つ。 ![]() 水盤 ![]() クスのご神木 ![]() |
嵯峨鳥居本の鳥居本八幡宮(とりいもと-はちまんぐう)は、仙翁寺山の山麓、森の中に建つ。 祭神は、第15代・応神天皇(おうじん-てんのう)を祀る。 ◆歴史年表 室町時代、1413年、室町幕府3代将軍・足利義満の母・紀良子が亡くなり、その志願により、仙翁寺跡に洪恩院(清凉寺南)の鎮守社として八幡宮を祀ったという。(『鳥居本八幡宮神社由緒略記』)。旧社殿は現在の境内の裏山にあったという。 江戸時代、1682年、仙翁寺は絶え、畑山の霊社が祀られており、霊社は仙翁寺の鎮守八幡と記されている。(『雍州府志』) 江戸時代、1712年、愛宕山一の鳥居東の道傍に小堂があると記されている。(『和漢三才図会』) ◆紀 良子 南北朝時代-室町時代前期の紀 良子(きの-りょうし/よしこ、1336-1413)。女性。号は北向、法号は洪恩院殿月海如光禅定尼。 父・石清水八幡宮検校・善法寺通清、母・智泉聖通(ちせん-しょうつう)(第84代・順徳天皇の皇子・四辻宮善統親王の孫)。姉妹に後円融天皇生母・紀仲子、伊達政宗正室・輪王寺殿。室町幕府2代将軍・足利義詮(よしあきら)の側室になる。1358年、3代将軍・義満、1364年、弟・満詮らを産む。1381年、従二位、1413年、従一位に叙せられた。臨済宗の春屋妙葩(しゅんおく-みょうは)に帰依した。78歳。 良子の母が皇統の血をひくとされ、義満皇胤説が生まれた。義満の左大臣昇進、皇室接近の要因とされる。義満は八幡宮を崇敬し、6代将軍・義教、8代将軍・義政もたびたび八幡宮を参詣した。将軍家と善法寺家との深い関係が続いた。 ◆応神 天皇 古墳時代(5世紀前後)の第15代・応神 天皇(?-?、おうじん-てんのう)。詳細不明。男性。諱(いみな)は誉田別尊(ほんだわけのみこと、品陀和気命)、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。筑紫(つくし)の生まれという。第14代・仲哀(ちゅうあい)天皇の第4皇子、母は神功皇后(じんぐうこうごう)。皇后の三韓遠征時には胎内にあり胎中(たいちゅう)天皇とも称されたという。母とともに大和に赴き、母の摂政下で皇太子になり、母の死後即位したという。和国高市郡軽島(豊)明宮に居した。110歳?。 記紀伝承として、池溝開発、内政整備、蝦夷(えみし)の朝貢、吉野国樔(くず)の貢献、吉備の行政的編成、百済から阿直岐(あちき) ・弓月君(ゆづきのきみ) ・王仁(わに) ・阿知使主(あちのおみ)らが渡来し、養蚕・織物・灌漑・治水技術、漢字・儒学などを伝えたという。『宋書(そうじょ)』夷蛮(いばん)伝の倭国(わこく)の条の倭王の一人「讃(さん)」は応神天皇ともいう。 陵は恵我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ、誉田陵[こんだりょう]、誉田御廟山古墳)(大阪府羽曳野市)という。 ◆洪恩院 洪恩院は室町幕府3代将軍・足利義満の母・紀良子(1336-1413)が、その住居「小河殿」を禅寺に改めたものという。紀良子の法号は洪恩院殿月海如光禅定尼という。 寺は室町時代後期、16世紀(1501-1600)前半に衰退し、金剛院内へ移る。12代将軍・足利義晴(1511-1550)の命により鹿王院(右京区)内に移されたという。 ◆五山送り火 当社では神仏習合期、仏式により法要が執り行われていたという。8月16日には、本社で紀良子生家である石清水八幡宮に送り火をしていた。それが五山送り火(8月16日)の鳥居形の送り火の起源であるともいう。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 案内板、『京都市の地名』、『京都の地名検証』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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