石塔寺 (向日市)
Sekito-ji Temple
石塔寺 石塔寺 
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法華題目石塔


「日像菩薩御石像」と刻まれている。


本堂


本堂





 鶏冠井町(かいでちょう)の西国街道に西面して石塔寺(せきとうじ)がある。「お塔さん」とも呼ばれている。山号は法性山という。 
 本化日蓮宗本山の単立寺院、本尊は十界大曼荼を安置している。 
◆歴史年表 奈良時代、長岡京(784-794)の頃、鶏冠井は都の中心地に当たり、大極殿、八省院などが置かれた。
 785年、造長岡京使・藤原種継がこの付近で暗殺されたという。
 平安時代、934年、紀貫之は土佐国より帰路の途中で、休息をとったとされる「島坂」はこの付近だったという。
 鎌倉時代、1307年頃、日像は乙訓山崎付近で布教を行う。
 1310年、開山・日像が、京都の七口に法華題目の石塔婆を立てようとした。当初は、向日神社前に題目石塔「南無妙法蓮華経」を立てたという。(「乙訓郡寺院明細帳」)
 室町時代、文明年間(1469-1487)、1470年とも、日成は、日像の立てた題目石塔「南無妙法蓮華経」を現在地に移したという。石塔の傍らに本堂が建立され寺院になる。以来、石塔寺と呼ばれた。
 江戸時代、元和年間(1615-1624)、妙覚寺・日奥を派祖とした不受不施派(ふじゅふせは、日蓮宗以外の者より布施を受けず、他宗寺院に僧、供物を施さない)として幕府に願い出る。
 1666年、不受不施派禁制になり、妙顕寺派に属した。
 寛文年間(1661-1672)、独立本山になり、末寺は近畿一円に33か寺になる。
 1669年、大弾圧「寛文惣滅」により伽藍は壊滅した。
 近代、1876年、興隆寺(鶏冠井村)を合併した。興隆寺の廃堂が移される。
 1877年、本堂、庫裏、座敷、小座敷、塔堂、七面堂、妙見堂、鐘楼、門などを整えた。
 現代、1954年、日蓮宗から独立し、本化日蓮宗と公称した。
 1985年、「鶏冠井題目踊」は、京都府指定無形民俗文化財に指定された。
日像 鎌倉時代の日蓮宗の日像(にちぞう、1269-1342)。肥後房、肥後阿闍梨。下総国に生まれた。7歳で日蓮の六大弟子のひとり日朗に師事した。1275年、身延の日蓮の弟子になり、日蓮が経一丸と命名し本尊を授与する。1282年、日蓮没後、日朗に再び師事した。北陸を経てね1294年、入洛、日蓮の遺命により日蓮宗最初の京都弘通(ぐつう、布教)、宗義天奏(天皇への布教)を行う。松ヶ崎・歓喜寺(妙泉寺)、洛西・真経寺、深草・極楽寺(宝塔寺)を日蓮宗に改宗させた。町衆に信徒拡大し、一時の京都は「法華題目の巷」と呼ばれた。1307年頃、乙訓山崎付近で布教を行う。比叡山延暦寺などの圧力により、1307年、土佐配流、1308年、紀伊流罪、1321年、洛内追放と3度の弾圧と赦免「三黜三赦(さんちつさんしゃ)の法難」を受ける。1311年、妙顕寺を開創し、教団発展の礎を築く。深草・宝塔寺に葬られる。
 一門は四条にあったことから四条門流と呼ばれた。1358年、弟子・大覚の祈雨の功により菩薩号が贈られた。
◆藤原種継 奈良時代末期の官人・藤原種継(ふじわらのたねつぐ、737‐785)。父は浄(清)成、母は秦朝元の娘ともいう。766年、従五位下、美作、紀伊、山背の国守、近衛少将を歴任。第50代・桓武天皇に信任され782年、参議、783年、従三位式部卿兼近江按察使(あぜち)、784年、中納言。造長岡京使に任ぜられ、正三位に叙された。遷都工事を推進し、反対派の大伴継人(つぐひと)らに暗殺された。贈正一位左大臣のち贈太政大臣。
◆紀貫之 平安時代の歌人・紀貫之(き の つらゆき、?-946)。望行の子。御書所預、内膳典膳、少内記、大内記、美濃介、右京亮、玄蕃頭、木工権頭などを歴任し、従五位上。寛平年間(889-898)、是貞親王家歌合や寛平御時后宮歌合に出詠した。905年、第60代・醍醐天皇の命を受け、友則らと勅撰集『古今和歌集』を編纂する。930年、土佐守に任ぜられる。赴任直前に醍醐天皇の命により『新撰和歌』を編纂したが未完に終わる。934年、帰京の際に、女性に託し仮名による『土佐日記』(935年頃)を綴る。三十六歌仙のひとり。
◆建築 近代、1876年、興隆寺(鶏冠井村)を合併し、廃堂が移される。
 1877年、本堂、庫裏、座敷、小座敷、塔堂、七面堂、妙見堂、鐘楼、門などが建てられた。
◆文化財 日像筆の「題目卒塔婆」が安置されている。
 「力士像」1対がある。かつて、興隆寺の力士門の上に置かれていた梁を支えていた。江戸時代の左甚五郎作ともいう。
◆日蓮宗・鶏冠井題目踊 鶏冠井町には「鶏冠井題目踊(かでい だいもくおどり)」が伝えられている。
 鎌倉時代後期、日像は日蓮宗の布教を行う。真言寺住持の実賢が改宗し、関西初の日蓮宗寺院として真経寺と寺号も改めた。以後、鶏冠井村あげて法華信徒になる。江戸時代、1654年、真経寺は南真経寺、北真経寺に分かれ、石塔寺、興隆寺と日蓮宗の4寺のみが存在した。その後、興隆寺は石塔寺に吸収合併になる。
 鎌倉時代末より、南北真経寺で交互に、檀家による題目踊が伝えられてきた。音頭には、日蓮宗の平易な教説が織り込まれている。かつて、踊りは長男のみに伝承され、御霊宝開帳の際に踊る習わしになっていた。伝承があり、日像が布教に訪れた際に、村人が昼食の用意をしていると、炊煙が「南無妙法蓮華経」のお題目七文字を描いたという。村人はこれに驚き帰依し、踊り出したのが始まりという。
 踊り手は着流しの着物、手甲、白足袋に扇と菅笠姿を持つ。ほかに拍子木、太鼓たたき、音頭取りからなる。踊りは「序ひらき」「地築踊」「扇千鳥」「笠の流し」「扇まぬけ」「居やゐ踊」「三笠踊」「たんだ踊」「蓮華踊」「拍子踊」「扇踊」「志具美(しぐみ)踊」「結踊終(みつじゅ)」の13曲がある。曲の終わりにお題目「南無妙法蓮華経」が唱えられ、太鼓、拍子木が打たれる。流しの手振り、室町時代の風流踊りを取り入れた踊りがある。
 一時は廃絶の危機にあった。「鶏冠井題目踊保存会」(石塔寺、南真経寺、北真経寺の檀家有志)が結成され、石塔寺の花まつり(5月3日)、高槻市の本澄寺の「竜口法難会」(10月12日)などで奉納されている。1985年、京都府指定無形民俗文化財に指定された。
◆鶏冠井 鶏冠井(かいで)の地名は、奈良時代の長岡京(784-794)の頃、九条蝦手(鶏冠井)里、弓絃羽(ゆずりは)里にあたる。
 蝦手井は「かえるてい」「かてい」「かいて」と読まれたとみられている。「かいて井」「かいて村」とも記されていた。
◆長岡京 奈良時代、長岡京(784-794)の頃、鶏冠井は都の中心地に当たり、大極殿、八省院、内裏などが置かれていた。785年、造長岡京使・藤原種継が当寺付近で暗殺されたという。
◆年間行事 春季彼岸会(3月春分)、花まつり・鶏冠井町題目踊(5月3日)、盂蘭盆会(8月15日)、秋季彼岸会(9月秋分)、御会式(10月12日)。
 お塔さん会(毎月13日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 向日市教育委員会等説明板、『京都おとくに歴史を歩く』『昭和京都名所図会 6 洛南』『京都府の地名』『京都大知典』『事典 日本の名僧』

 
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七面堂

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迹殿

迹殿

鐘楼

庫裏

題目石塔

西国街道

西国街道、門前に通る。
 石塔寺 〒617-0004 向日市鶏冠井町山畑44  075-931-0713
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