慈氏院 〔南禅寺〕 (京都市左京区) 
Jishi-in Temple
慈氏院  慈氏院
50音索引,Japanese alphabetical order  Home 50音索引,Japanese alphabetical order  Home















庫裏


玄関


玄関









庭園



達磨堂



達磨堂、達磨大師像の立像。



達磨堂

 南禅寺境内の北西に塔頭の一つ慈氏院(じしいん)がある。「達磨堂(だるまどう)」、「だるま寺」、「おあしがよる大師」とも呼ばれている。 
 臨済宗南禅寺派。本尊は観音大士。
◆歴史年表 南北朝時代、1385年/1387年、南禅寺44世・義堂周信(ぎどう-
しゅうしん)は、足利義満より寿塔の地を譲られ創建した。この地は、根本延寿堂跡だった。春屋妙葩(しゅんおく-みょうは)は、その境内が狭いとして南禅寺北辺の私有地を分け敷地に充てた。(『満済准后日記』)
 1387年、慈氏院の文献初例になる。(『空華日用工夫略集』)
 中世(鎌倉時代-室町時代)、衰微する。
 江戸時代、1694年、大名・蜂須賀綱矩が再興した。
 近代、1868年、現在の東山中学付近より現在に地に移った。
 1871年、蜂須賀家が神祭になり、位牌が引きあげられる。
 1887年、塔頭・語心院を合併する。その旧地に移る。
◆義堂周信 鎌倉時代後期-南北朝時代の僧・詩人・義堂周信(ぎどう-しゅうしん、1325-1388)。号は空華道人(くうげ-)。土佐(高知県)の生まれ。7歳で松園寺・浄義に学び、14歳で剃髪、翌年、比叡山に上り受戒した。1341年、禅宗に帰依し臨川寺の夢窓疎石に師事し周信と称した。後に法嗣になる。法兄・方外宏遠に学ぶ。1351年、師没後、建仁寺の臨済宗黄竜派・竜山徳見に参じ文学を学ぶ。1359年、法兄・春屋妙葩の命により、関東公方・足利基氏の招請に応じ鎌倉に下り、基氏、氏満父子の教育係iになる。上杉朝房、能憲の帰依を受けた。石室善玖、中巌円月、不聞契聞を知り、常陸・勝楽寺、鎌倉・善福寺、瑞泉寺、円覚寺、黄梅院などの住持、1371年、報恩寺の開山になる。1380年、3代将軍・足利義満の召還により帰京し、義満庇護により相国寺の建立を進言した。1385年/1386年、南禅寺44世になる。以後寺格は五山の上になる。南禅寺・慈氏院、上生院、常在光院などに住した。南禅寺・慈氏院に退隠し塔された。64歳。
 足利義満に進言し、南禅寺を五山上位とし、相国寺を五山に加えた。中国文化に通じ、中巌円月、絶海中津と並び五山文学の代表、絶海とは双璧とされた。日記『空華(くうげ)日用工夫略集』、『重編貞和類聚祖苑聯芳集』を編じた。
◆約翁徳検 鎌倉時代中期-後期の臨済宗の僧・約翁徳検(やくおう-とくけん、1244-1320)。諡号は仏灯国師。相模(神奈川県)鎌倉の捨て子という。渡来僧・蘭渓道隆(らんけい-どりゅう)が童役として養父より引き受ける。16歳で出家し、東大寺で登壇受戒した。蘭渓に従い建仁寺、建長寺に移る。中国に渡り五山を歴参した。1296年、建長寺主・葦航道然(いこう-どうねん)のもとで首座、長勝寺を開く。鎌倉の東勝寺、浄妙寺、禅興寺に住した。1306年、勅を受け建仁寺に住した。1317年、一山一寧(いっさん-いちねい)の没後、後宇多上皇(第91代)に請われ南禅寺に住した。仏灯大光国師の号を賜り、固辞して「仏灯」の2字のみを受けた。著『仏灯国師語録』。76歳。
◆蜂須賀綱矩 江戸時代前期-中期の大名・蜂須賀綱矩(はちすか-つなのり、1661-1730)。幼名は熊太郎、法号は操山。蜂須賀隆矩の長男、蜂須賀綱通の養子。1678年、阿波・徳島藩主の蜂須賀家5代。後見の伯父・蜂須賀隆重に新田5万石を分与し、富田藩が立てられる。1680年、4代将軍・徳川家綱死去に伴い、堀田正信殉死の責を問われ、5代将軍・徳川綱吉から閉門を命じられた。その後、解かれる。1728年、職を辞し、出家し操山と号した。70歳。
◆椿庭海寿 鎌倉時代後期-室町時代前期の臨済宗の僧・椿庭海寿(ちんてい-かいじゅ、1318-1401)。号は木杯道人。遠江(静岡県)の生まれ。元の渡来僧・竺仙梵僊の法を嗣ぐ。1350年、元に渡り、了庵清欲、月江正印らに学ぶ。明・太祖(朱元璋)から厚遇された。1372年、帰国し、鎌倉・円覚寺、天竜寺、南禅寺の住持になる。1373年、語心院を創建した。著『伝灯録鈔』。84歳。
◆山中鹿介 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・山中鹿介(やまなか-しかのすけ、?-1578)。鹿介幸盛。富田城主・尼子義久の近習になる。1563年、尼子氏は毛利元就軍により白鹿城の救援で敗退し、1566年、籠城した富田城落城により滅亡した。鹿介は、義久遺子で東福寺僧・尼子勝久を擁立し、立原久綱らと尼子氏再興に尽力した。1569年、豊後・大友義鎮と連携し隠岐で挙兵する。1570年、毛利援軍との布部山戦に大敗し、吉川元春の反撃により、1571年、伯耆末石城が陥落し、捕らえられ京都に脱した。織田信長の援助をうけ、1573年、因幡に侵入し、鳥取城を陥す。1576年、因幡若桜鬼城を陥され京都に逃れた。1577年、信長部将・羽柴秀吉の下で毛利攻めし、上月城に主君・勝久と籠った。1578年、毛利・宇喜多軍により落城した。備中松山城・毛利輝元の許へ護送途中、高梁川河畔で処刑された。
◆柴山全慶 近現代の臨済宗の僧・仏教学者・柴山全慶(しばやま-ぜんけい、1894-1974)。号は文明、寒松軒。愛知県生まれ。11歳で国分寺・服部全冷により得度した。1916年、南禅寺僧堂に入門し、河野霧海に参禅する。1923年、慈氏院住職、河野霧海を嗣ぐ。1931年、日本仏教エスペランチスト連盟を起こした。1940年、臨済学院専門学校(花園大)教授、大谷大教授を兼任する。1948年、南禅寺僧堂師家、1959年、南禅寺派管長に就任した。1959年、南禅寺派管長、南禅寺住持になる。1965年、以来ヘインズ財団の招請により9回渡米し、クレアモント大学、コルゲート大学で講じた。著『禅林句集』、『臨済禅の性格』など。79歳。
◆達磨大師像 達磨堂に安置されている石造の達磨大師像は、珍しい立像になる。「おあしがよる大師」と呼ばれ信仰を集める。達磨に足があることから、「おあし(金銭)が寄る」にかけている。
◆語心院 南禅寺塔頭・語心院は、南北朝時代、1373年に椿庭海寿により創建された。近代、1887年、塔頭・慈氏院に合併される。
◆建築 本堂、書院、山門、庫裏などが建つ。
◆茶室 茶室「看雲席(かんうんせき)」が建つ。かつて塚本貞二郎宅(南禅寺下河原町)にあった数奇屋を1931年に移した。二畳二台目中板の茶席は、中柱出炉下座間、天井は竹竿縁平天井、蒲の落天井、掛込天井、茶道口・火灯口・北に躙口・広縁の貴人口が開く。
 広間(8畳)、控室(6畳)・水屋の間、庭に腰掛待合もある。
◆庭園 池泉式の庭園がある。
◆文化財 絹本著色「役翁徳倹像」(重文)。
◆石碑 山中鹿介の石碑が庭園の一角に立つ。江戸時代、1759年、大坂の豪商、今橋鴻池家分家・山中善五郎家一門の山中幸寛が、当時の住持に帰依した。碑は、先祖の山中鹿介の遺徳をしのび墓地内に建立したという。近代になり墓地より現在地に移された。
◆墓 当院住持であり、仏教学者でもあった柴山全慶(1894-1974)の墓(寒松塔、号は寒松軒)がある。
 儒学者・古医方の宇津木昆台(五足斎、1779-1849)の墓がある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『南禅寺史 上』、『事典 日本の名僧』、『増補版 京の医史跡探訪』、『京の茶室 東山編』、『京都大事典』、『京都大知典』、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺南禅寺  関連・周辺聴松院〔南禅寺〕  周辺  関連    
慈氏院 〒606-8435 京都市左京区南禅寺福地町86-17  075-771-1280
50音索引,Japanese alphabetical order  Home   50音索引,Japanese alphabetical order  Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光