油掛地蔵 (京都市右京区)
Aburakake-jizo
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「大覚寺 油掛地蔵尊」とある。




御詠歌



油掛地蔵尊



油掛地蔵尊、実際には阿弥陀三尊仏で、頭の左右に種字が刻まれ三尊になっている。



油掛地蔵尊の左右に安置されている地蔵尊。地域の人々の篤い信仰が続いており、掛けられた油で姿も見えない。



油掛地蔵尊の安置されている地蔵堂左にある小さな祠内にもいくつかの小さな地蔵尊が安置されている。これらにも油が掛けられていた。
 油掛町の新丸太町通の南、有栖川沿いの四辻の交差する地点に地蔵堂が建つ。堂内に、油掛地蔵(あぶらかけ じぞう)が安置されている。道は北へ向かうと大覚寺へ、西へ向かうと天龍寺、嵐山へ通じている。堂には、「大覚寺油掛地蔵尊」の看板が掲げられている。
 地蔵尊に油を掛けると所願成就するといわれている。地蔵尊は長年にわたり油を掛けられ、油の匂いが立ち、油は層を成し黒変している。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 鎌倉時代、1310年、願主・平重行により、阿弥陀三尊として安置されたという。
 江戸時代、1680年、黒川道祐の「嵯峨行程」に記述があり、地蔵尊には油商人が必ず油を掛けて通っていたという。(『東北歴覧記』)
◆地蔵尊 油掛地蔵と呼ばれている。実際には、蓮華座の上に、定印を結び結跏趺坐した阿弥陀如来坐像になる。本来は阿弥陀三尊であり、阿弥陀仏の頭部の左右にそれぞれ小さく観音菩薩、勢至菩薩の種字(しゅし、梵字)が刻まれた三尊形式になっている。また現在は、阿弥陀仏の左右に2つの石仏が置かれている。
 光背の外、左には小さく「願主 平重行」、右に鎌倉時代「延慶三庚戌(1310年)十二月八日」の銘が刻まれている。鎌倉時代作在銘の石仏は、京都に2体しか現存していないという。
 地蔵尊の信仰の起源について、古代(奈良時代-平安時代)、この付近に勢力を有していた阿刀(あと)氏が禊祓(みそぎはらえ)の職掌にあり、禊行為の一種ともいう。少なくとも江戸時代には油を商う者は、辻堂を通り過ぎる際には、必ず像に注いで通り過ぎていたという。その理由は不明としている。(黒川道祐『東北歴覧記』の「嵯峨行程」、江戸時代、1680年) 
 像は厚肉彫りで光背の縁を残し、地部分も内側に彫り込んでいる。像高113cm、頭部27cm、蓮華座の高さ20cm、その下の台座部(反花)11cm。光背上部の両肩を斜めに大きく切り落としている。光背の高さ170cm、幅84cm、厚さ40cm。上部両角を落とした最上部の幅50cm、下の縁の厚さ16cm、花崗岩製。
◆洗脚石 妙心寺塔頭・大龍院(右京区)に、「関山国師洗脚石(せんきゃくいし、洗脚関山石)」と呼ばれる石がある。伝承がある。
 鎌倉時代の妙心寺開山・関山慧玄(1277-1361、無相大師)は、天龍寺の夢窓疎石(1275-1351)を訪問した。その際に、必ず油掛地蔵尊の処で、前に流れる川で足を洗い身を清めていたという。後に、天龍寺の僧侶がこの事に気づき、洗いやすいようにと、川の畔に石を移して置いた。その後、天龍寺塔頭・南芳院に移され保存された。(『正法山誌』)。
 近代、今川貞山(1826-1905)により天龍寺より妙心寺塔頭・大龍院に移された。石は、今も庭園高台に残されている。貞山は、妙心寺派管長を務め、妙心寺に大龍院を再興している。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 「油掛地蔵尊奉賛会」の案内板、『新版 京のお地蔵さん』『京都市の地名』『昭和京都名所図会 4 洛西』『京都大事典』


関連・周辺阿刀神社      周辺        関連大龍院〔妙心寺〕      関連南芳院〔天龍寺〕        

地蔵尊に供えられているサラダ油。

「右愛宕 左虚空蔵」の道標、堂は旧下立売通に面しており、古くより往来があった。道標は愛宕神社と嵯峨虚空蔵(法輪寺)を案内している。
油掛地蔵 〒616-8346 京都市右京区嵯峨天龍寺油掛町30-1   075-881-3596
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