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長恩寺 (京都市西京区) Choon-ji Temple |
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長恩寺 | 長恩寺 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「光現院 千光寺」と残る。 ![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂、「光現院」の扁額 ![]() 千光寺観音堂、千手観音を安置する。 ![]() 千光寺観音堂 |
上桂の住宅地にある長恩寺(ちょうおん-じ)は、山号を霊鷲山(れいじゅ-ざん)という。 西山浄土宗、本尊は千手観音立像。 京都洛西観音霊場(洛西三十三所観音霊場)第26番札所。 ◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 鎌倉時代前期、創建されたという。厄除、雷よけの観世音菩薩として信仰された。 近代、1882年、近隣の尼寺の千光寺、念仏寺、光照庵の3寺が合併され、長恩寺となる。千光寺の本堂が残される。 現代、1978年、廃れていた洛西三十三所観音霊場めぐりが再興された。 ◆霊元 天皇 江戸時代前期-中期の第112代・霊元 天皇(れいげん-てんのう、1654-1732)。男性。父・第108代・後水尾天皇、母・国子(新広義門院)(園基音の娘)の第19皇子。1658年、親王宣下、1663年、即位。天皇が幼いため新主御用、近習番が補佐した。のちに院派の公家衆と天皇近習衆との対立が生じた。後水尾没後、近習衆による朝廷再編を目指し幕府と対立する。1687年、譲位後、院政をしくが、1690年、近衛基煕の関白就任後は朝幕協調に戻される。有職故実、宮中記録整備、霊元院歌壇を形成した。泉涌寺内の月輪陵 に葬られる。 ◆按察使局 江戸時代前期の女官・按察使局(あぜち-の-つぼね、?-?)。詳細不明。松尾の生まれという。父・権大納言高辻豊長の長女。第111代・後西天皇の後宮に入り、1676年、道尊入道親王を産む。第112代・霊元天皇の乳母になる。千光寺で出家したという。梅盛院長空尼と称した。 ◆本尊 本尊の「千手観音立像」は、かつて千光寺の本尊だった。厄除け、雷除けの観音として信仰を集める。像高2m。 ◆霊元天皇と按察使局 観音堂内に、江戸時代前期の第112代・霊元天皇の位牌「霊元院皇帝尊儀」とその乳母・按察使局(あぜち-の-つぼね)の尼僧坐像が安置されている。按察使局は千光寺で出家したという。 霊元天皇は、按察使局と恋に落ちたという。天皇が送ったという恋文が寺に所蔵されている。 ◆千光寺 上桂村の千光寺は浄土宗で、皇室との関わりもあった。近代、1882年、近隣の尼寺3寺の合併により廃寺になる。現在、長恩寺境内には、旧千光寺観音堂が残されている。 かつて観音堂では「おこない」(5月4日)が行われていた。村人は牛王を受け、猪苗代の水口に立てる慣わしがあった。西国札所巡礼の観音講も存在していたという。(『京都古習志』) *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都市の地名』、『洛西三十三所観音霊場』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』 、ウェブササイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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