長福寺 (京都市右京区) 
Chofuku-ji Temple
長福寺  長福寺 
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表門










門の北脇


筋塀


仏殿



鐘楼



表門南の脇にある油掛地蔵堂



堂内に油掛地蔵が安置されている。
 右京区梅津、四条通南に長福寺(ちょうふくじ)はある。山号は大梅山(だいばいさん)という。
 臨済宗南禅寺派、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 平安時代、1169年、仁安年間(1166-1169)とも、梅津氏子孫の尼僧・真理により創建された。真理はかつて京都に住していた。住居が焼失し荘園「梅津荘」(真理が藤原氏に寄進した荘園)に移る。以前より建立していた堂舎に梅津氏先祖代々の古仏を安置して寺にした。(『長福寺縁起』)。当初は天台宗だった。
 1170年、落慶供養が執り行われたという。安居院(あぐい)・澄憲が導師を務める。
 1190年、梅津上御荘に新御堂が建立される。旧地の堂(本御堂)はその後も併存していたとみられている。また、本御堂は移し、敷地は近衛家に還したともいう。
 鎌倉時代、1298年、南都僧・定源、山門僧・実俊らが寺に乱入し、文書を奪い、2世・行宴が怪我を負う。寺領を巡る諍いが続き、以後も内部で対立する。
 1300年、尼・智淵が別当職に就き、以後は尼寺になる。
 南北朝時代、1339年、月林(普光大幢国師)が再興し、臨済宗に改宗する。梅津清景(梅津左衛門尉清景)の帰依によるともいう。本御堂の寺務・寛舜純覚(貞信)が寺を月林に寄せた。
 1345年、花園上皇(第95代)が領地を寄進する。(「荘園上皇院宣」)。月林は両御堂(本御堂、新御堂)を一つとして管理した。
 1346年、花園上皇が臨幸する。(「長福寺文書」)
 1347年、藤原氏女が執行職を寄進した。
 1348年、花園上皇が亡くなり、月林により御影堂が建立される。(『園太暦』)
 1350年、勅願寺になる。
 1352年、北朝初代・光厳天皇妃・陽禄門院が亡くなり、当寺に葬られる。(『玉英記抄』)
 1358年、崇光上皇(北朝3代)が、陽禄門院の塔頭建立に際して行幸する。(『愚管記』)。北朝方のとして寺運は隆盛になる。
 1440年、梅津清景が田地を寄進した。
 室町時代、禅寺十刹の一に列した。
 応仁・文明の乱(1467-1477)により荒廃する。
 その後、守護大名・山名宗全(1404-1473)が復興した。
 安土・桃山時代、1592年、諸山に列せられ官刹になる。
 江戸時代、御朱印寺になり、幕府により350石(351石とも)の朱印状が与えられる。(「京都御役所向大概覚書」)。南禅寺末になる。大寺になり、塔頭・子院11を数えた。門前町も栄えた。
 1668年、方丈、庫裏が建立される。
 1680年、歴史家・黒川道祐が訪れ、『嵯峨行程』に記している。
 1695年、現在の仏殿が建立される。
 1732年、この頃、山門、仏殿、法堂、方丈が建ち、境内の東西には28の塔頭を構えたという。塔頭の院主は金地院による兼帯になっていた。境外東には惣構え内(堀、塀)に門前集落が形成されていた。(「大梅山長福寺全盛古大図」、同年条)
 1789年、御朱印高350石、末寺8カ寺、寺家11カ寺を数える。(「南禅寺末寺帳」)
 嘉永年間(1848-1854)、書院が建立される。
 近代、1868年以降、塔頭、伽藍の多くを失う。
◆尼僧真理 平安時代の尼僧・真理(しんり、?-?)。詳細不明。この地の領主・梅津氏出身の春宮大夫公行の娘。梅津荘第13代・播磨前司入道青蓮の養女になる。1169年、長福寺を創建した。
◆花園天皇 鎌倉時代の第95代・花園天皇(はなぞの てんのう、1297-1348)。萩原法皇。第92代・伏見天皇の第3皇子。母は藤原季子(顕親門院)。第93代・後伏見天皇の異母弟。兄・後伏見天皇の猶子になり、1301年、皇太子、1308年、大覚寺統の第94代・後二条天皇の後に12歳で即位する。父、兄が院政を敷く。鎌倉幕府の大覚寺統と持明院統の迭立案(文保の和談)に従い、1318年、大覚寺統の第96代・後醍醐天皇に譲位した。伏見上皇とともに持明院殿に住した。退位後は光厳天皇の養育を行う。信心深く、1335年、円観により出家、遍行と称した。宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう)、関山慧玄(かんざん えげん)に帰依し、大徳寺を祈願所にした。花園の萩原殿(妙心寺・玉鳳院の旧地)に居した。学問を好み、宗学を修め、和歌は京極派の一人、『風雅和歌集』を自撰した。日記に重要な史料『花園天皇宸記』がある。
 墓は十楽院上陵(東山区)にある。
◆月林 南北朝時代の臨済宗の僧・月林(がつりん/ がちりん、?-1351)。詳細不明。道皓(どうこう)。久我家の出身、堀川中納言具房の次男ともいう。宋に遊学した。花園上皇(第95代)の信を得て、多くの寺領を得た。1339年、長福寺を再興する。諡号は普光大幢国師。
 長福寺境内の清凉院に葬られる。
◆梅津清景 鎌倉時代末の梅津清景(?-?)。詳細不明。梅津左衛門尉清景、豊前左衛門尉。梅津庄の開発者・藤原惟隆の末裔という。月林に深く帰依し、所領の一部を寄進した。
◆本尊 方丈の後列中央間の仏間に、本尊「阿弥陀如来」を安置する。
◆建築 現存の建物は、仏殿、方丈、鐘楼、表門がある。いずれも京都市指定有形文化財に指定されている。 
 ◈「仏殿」は、江戸時代、1695年に建立された。近世中期、禅宗様三間仏殿の代表建築という。3間3間、身舎(もや)の周囲に裳階(もこし)がつく。 
 ◈「方丈」は、江戸時代、1668年に建立された。6間取り方丈形式。
 ◈「鐘楼」は、江戸時代、17世紀に建立された。
 ◈「表門」は、江戸時代、17世紀に建立される。一間薬医門。
◆文化財  以下、いずれも京都国立博物館保管。南北朝時代の藤原豪信筆、紙本着色「花園天皇像」(国宝)。元時代の「古林清茂(くりんせいむ)墨蹟」(国宝)。
 以下すべて重要文化財指定。南北朝時代の絹本著色「仏涅槃図」、平安時代の紺紙金字「金光明経」、鎌倉時代の紙本墨書「長福寺縁起」、鎌倉時代の紙本墨書「花園天皇宸翰 如来寿量品偈」、鎌倉時代の紙本墨書「花園天皇宸翰 阿弥陀経残巻」、鎌倉時代の紙本墨書「花園天皇宸翰 達磨像御賛」。南北朝時代の「竺仙梵遷墨蹟」。
 古文書として南北朝時代の紙本墨書「花園天皇宸翰 御消息」、南北朝時代の紙本墨書「月林道皓禅師送行文」、南北朝時代の紙本墨書「光厳院宸翰 仮名御消息」、南北朝時代の紙本墨書「光厳院宸翰 御消息」、南北朝時代の紙本墨書「後光厳院宸翰 御消息」、南北朝時代の紙本墨書「普光大幢国師諡号勅書」。
◆庭園 方丈の北、西に枯山水式庭園がある。平庭で、江戸時代、1662年頃の作庭という。中央に苔の低い中島が造られている。石灯籠、手水鉢などがある。
◆墓 ◈方丈の南庭に、南北朝時代、建武元年(1334年)銘の「石造宝塔」(重文)が立つ。開山の月林の墓という。ただ、月林は、1351年に亡くなっている。高さ2.14m、花崗岩製。
  ◈境外南東(梅津南町)の長福寺別院に、「宝篋印塔」が立つという。南北朝時代の壇越・梅津清景(梅津左衛門尉清景)の墓という。かつて、大崎寺(廃寺)にあり、東梅津村北山より遷したという。(『橘窓自語』)。高さ2m、花崗岩製。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都府の歴史散歩 上』『京都古社寺辞典』『洛西探訪』『昭和京都名所図会 4 洛西』『京都大事典』『京都の寺社505を歩く 下』 、ウェブサイト「コトバンク」

 
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長福寺 〒615-8065 京都市右京区梅津中村町37  075-861-1304 
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