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末慶寺 (京都市下京区) Matsukei-ji Temple |
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末慶寺 | 末慶寺 |
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![]() ![]() ![]() 門脇に立つ「烈女畠山勇子の墓」の石標 ![]() ![]() 本堂 |
五条大宮北西の末慶寺(まつけい-じ)は、ロシア皇太子が警護の警察官に傷つけられた大津事件に関わる。事件後に自殺した烈女とされた畠山勇子の墓がある。 浄土宗西山禅林寺派、本尊は阿弥陀如来。 ◆歴史年表 創建変遷の詳細は不明。 かつて、五条新町通山崎町(下京区新町通松原下ル富永町付近)にあったという。 江戸時代、1634年頃まで、隣接していた南蛮寺の西洞院キリシタン寺破却に伴い、下京区冨小路通六条下ルに移される。 1641年、枳殻邸建設に伴い現在地に移転となる。 近代、1891年、大津事件で自死した畠山勇子が住持・和田準然により境内に葬られる。 1895年、10月24日、文筆家・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が勇子の墓参に訪れる。 1907年、ポルトガルの外交官・モラエスは勇子の墓参に訪れた。 ◆和田 準然 江戸時代後期-近代の浄土宗の僧・和田 準然(わだ-じゅんねん、1853-1918)。詳細不明。男性。尾張国(愛知県)布袋の生まれ。別名は法空、界中山人、龍山人、岩田輿三次郞。末慶寺の和田準正の養子になる。1880年、準正の後をうけ住職になった。1886年、総本山禅林寺に入り、永く宗政に参与した。1897年頃、各宗有志と興隆仏法会を興し、機関誌『興隆』を創刊した。1891年、大津事件の畠山勇子を末慶寺に埋葬した。著『畠山勇子傳』。65歳。 勇子の顕彰に尽力し、義心を海外に伝えた。小泉八雲・モラエスらとも親交した。 ◆畠山 勇子 近代の女性・畠山 勇子(1865-1891)。女性。安房国(千葉県)鴨川の生まれ。父・治兵衛。生家は資産家だった。神職に漢学を習い、歴史、政治に興味を持つ。父は志士を支援し家運傾く。1882年、17歳で若松吉蔵に嫁いだ。1888年、23歳で離婚し、勤王の侠商・伯父の榎本六兵衛を頼り上京する。お針子として身を立てる。万里小路家、横浜の実業家原六郎家を経て、日本橋区室町の魚屋の下女になる。1891年、大津事件後、衣類を質に入れて旅費を得、5月20日、皇太子一行が静養していた京都へ向かう。本願寺、清水寺、知恩院などを参詣の後、夕刻、京都府庁の門前で白布を敷いた。両足を小帯で括り、剃刀で腹と喉を切り自殺した。ロシア政府、日本政府、親族への遺書10通が残されていた。天皇の立場を慮り、自らの死によりロシアに詫びようとしたという。27歳。 京都に身寄りなく、引き取り手のない遺体は、末慶寺住持・和田準然により境内に葬られた。 ◆小泉 八雲 近代の英文学者・小説家・小泉 八雲(こいずみ-やくも、1850-1904)。男性。イギリス名はラフカディオ・ハーン(Hearn,Patrick Lafcadin)。男性。ギリシャのリュカディア(レフカス)島の生まれ。父・チャールズ・ブッシュ・ハーン(アイルランド人軍医)、母・ギリシャ人(シチリア島)・ローザ・カシマチ。1856年、両親離婚し、父親の生家、アイルランド・ダブリンで大叔母に養育される。1862年頃、フランス・イプトー学校に在学した。1863年、イギリス・アショー学校に入学する。1866年、在学中に遊戯事故で左眼を失明した。父がスエズで死亡する。1867年、大叔母破産し学校を中退する。 1868年、ロンドンで放浪生活した。1869年、渡米する。1874年、 オハイオ州シンシナティ ・ 「エンクワイラー」新聞記者になる。日曜新聞「イ一 ・ジグランプス 」を発行する。1876年、「シンシナ ティ ・コマ シャル」新聞に移る。 1875年、短い結婚生活があった。1877年、ニュー ・オーリンズに移る。1878年、「ニュー ・ オーリンズ ・シティ・アイテム」社に移る。1881年、 「イム ズ ・ デモクラット」社の文学部長になる。1882年、フランスの詩人・小説家・ゴーチェの翻訳を刊行した。ギリシャで母が亡くなる。1887年-1889年、西インド・マルチニーク島に移る。1890年4月、ハーパー社の通信員として横浜着、8月、B.H.チェンバレンの紹介で島根県松江尋常中学に赴任する。12月、小泉セツ(節、松江藩士の娘)と結婚した。同僚・西田千太郎、県知事・籠手田安定らと親交した。1891年11月、熊本第五高等学校に移る。1894年11月、外国人居留地の神戸に移り、英字新聞「ジャパン・クロニクル」紙に論説記者として入社した。『知られぬ日本の面影』をアメリカで出版する。1895年、イギリス国籍から日本国籍になる。小泉家を継ぎ、小泉八雲を名のった。8月、上京し、東京帝国大学文科大学講師になり英文学を講じた。1903年3月、大学を退職する。1904年4月、東京専門学校(早稲田大学の前身)講師に移る。9月、急逝した。著『心』『霊の日本』『怪談』など多数。55歳。 ヨーロッパ文学の新潮流をアメリカに紹介した。日本文化の根底にある霊的な部分、儒教・神道・仏教に裏づけられた日本人を愛した。日本の風俗・習慣・伝説・信仰などの研究を深め欧米に伝えた。セツから聞いた昔話をみとに、多くの怪談も執筆し、鳥・草木・虫などにも関心を示した。ほか、印象記・随筆、批評・論文・伝説など幅広く執筆した。教え子に土井晩翠・厨川(くりやがわ)白村・上田敏らがある。 墓は東京・雑司ヶ谷墓地(現・雑司ヶ谷霊園)にある。 ◆モラエス 近代の軍人・外交官・文筆家のヴェンセスラウ・デ・モラエス(1854-1929)。男性。ポルトガルの生まれ。海軍学校を卒業後、ポルトガル海軍士官、1889年、来日した。1893年、マカオ港務局副司令、外交官になる。1899年、日本のポルトガル領事館在神戸副領事、1912年、総領事になる。1902年-1913年、新聞「コメルシオ・ド・ポルト」に日本紹介記事を寄稿する。1900年より、神戸で芸者おヨネと暮らした。1912年、ヨネ没後、1913年、職を辞し、ヨネの故郷・徳島市に移住、斉藤コハル(ヨネの妹)と暮らした。 ◆文化財 ◈畠山勇子の遺品は、帯、お守り、財布、黄楊櫛(2具)、簪(かんざし)、鉛筆、写真、自刃に使った血染めの剃刀(現在は錆びている)、衣類、臍の緒、遺書を書いた残りの和紙、手紙、葉書、冊子などが残されている。 ◈ハーンが寺に贈った自著『仏の畠の落穂(集)』、モラエスが寄稿した雑誌『セロンイス』(1907)、モラエスが住持に宛てた書簡9通(1907-1913)、ただし日本人に代筆させたものが残る。 ◆大津事件 近代、1891年5月11日、訪日中のロシアのニコライ皇太子(1894-1917、のちの皇帝ニコライ2世)は、琵琶湖遊覧の帰りに、大津町で警衛中の滋賀県巡査・津田三蔵(1855-1891)にサーベルで斬りつけられる。皇太子は命に別条はなく、頭部に負傷する。犯行動機は諸説あり不明。5月13日、第112代・明治天皇は京都の常盤ホテルに宿泊静養していた皇太子を見舞う。5月19日、皇太子は天皇に見送られ神戸港より帰国の途につく。 日本政府は裁判で、被告を皇族に関する刑法規定を準用し、死刑とするように要請した。だが、裁判官・児島惟謙(1837-1908)は、通常謀殺未遂の罪を適用するように担当裁判官を説いた。1891年、津田は死刑ではなく無期徒刑を判決される。北海道釧路集治監に収容される。同年、肺炎により病獄死した。 ニコライ2世は、ボリシェヴィキ十月革命後、1917年7月17日、ウラル地方エカテリンブルクのイパチェフ館地下室で、一家7人、使用人とともに銃殺処刑されている。 ◆文学 ◈ 1895年10月24日に、ラフカディオ・ハーンは末慶寺を訪ね、畠山勇子の墓に参り遺品などを見ている。大津事件の津田巡査については、愛国心によるものと評した。 勇子については『東の国から』、『仏の畑の落穂』にも記している。ハーンは勇子の遺品を見た印象として、「真の美というものは、内的生命と切っても切れぬものだということを承知している日本人にとっては、平凡な、ごくつまらない、些細なことこそが尊いのであって、そういう些末なことこそが、勇壮義烈の観念をいっそう強め、かつまた、それを実証することにもなるのである。」と述べている。「われわれ西洋人の多くは、今後は、もっともっと普通の一般庶民から、われわれの倫理道徳を学ばなければなるまい。」と記した。ハーンは、勇子の鏡に書きつけられた次の和歌一首に、多くの真理が含まれていると記した。「くもりなくこころの鏡みがきてぞ よしあしともにあきらかに見ん」(『仏の畑の落穂』) ◈ ヴェンセスラウ・デ・モラエスは、ハーンとの接触はなかったが敬愛していた。1907年、ハーンの跡を追うように畠山勇子の墓参に末慶寺を訪れる。雑誌『セロンイス』(1907)、後に原稿を纏めた著書『日本夜話』(1926)に書く。勇子については「大和だましい」の発露と見ていた。住職との間に書簡を交わしている。 ◆墓 本堂裏に、府下有志により建立された畠山勇子の墓がある。青石の自然石で高さは3m、幅3mほどある。 表に「烈女畠山勇子之墓」、裏に「勇子安房長狭郡鴨川町人天性好義明治二十四年五月二十日 有憂国事来訴京都府庁自断喉死二十七 谷鉄臣誌 府下有志建之」と刻まれている。戒名は「義勇院順室妙教大姉」。 *非公開 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『洛中洛外』、「東京外国語大学論集第46号 京都, 末慶寺所蔵 W・de MoraeS書簡について」、『おんなの史跡を歩く』 、『仏の畑の落穂』、ウェブサイト「近代文献人名辞典」、ウェブサイト「富山大学ヘルン文庫年表」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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