弥勒石仏 (京都府井手町)
Miroku-sekibitsu(Stone Buddhist Image of Miroku)
弥勒石仏  弥勒石仏 
50音索引,Japanese alphabetical order Home 50音索引,Japanese alphabetical order Home



中央の線刻


右の線刻
 かつて、井手城が築かれていた山の麓に、花崗岩の大岩に磨崖仏が彫られている。三体の弥勒石仏がある。ただ、左の線刻は風化が進んでいる。
◆歴史年表 詳細は不明。
 奈良時代、橘諸兄(たちばなのもろえ、684-757)の館の建立に際して、鬼門除けに刻まれたものという。
 ただ、後年、鎌倉時代から室町時代に、武士の支配と戦乱に苦しめられていた農民たちが、その心の拠り所として刻み拝したものであるともいう。
 また、原形をとどめる線刻は、江戸時代に彫られた地蔵尊ともいう。
◆橘諸兄 飛鳥時代-奈良時代の貴族・政治家・橘諸兄(たちばな-の-もろえ、684-757)。本名は葛城(かつらぎ)王、井出左大臣、西院大臣。第30代・敏達(びだつ)天皇の玄孫・美努(みの/みぬ)王の子、母は県犬養橘三千代 (あがた-の-いぬかい-の-たちばな-の-みちよ) 。光明皇后の同母兄で奈良麻呂の父。室は藤原不比等の娘・多比能(むすめたひの)。710年、従五位下、729年、班田使に任じられた。731年、諸司の挙により参議になる。732年、従三位に昇叙した。736年、臣籍に下り、母の氏姓を継ぎ橘宿禰諸兄(すくね-もろえ)と称することを許される。737年、天然痘の流行で藤原不比等の4子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂) 、中納言・多治比県守など多くの議政官が亡くなる。大納言になり、第45代・聖武天皇を補佐した。738年、右大臣になり、唐から帰国した玄昉(げんぼう)、吉備真備(きび-の-まきび)らを顧問に起用した。740年、諸兄排斥の藤原広嗣の乱が九州で起こる。恭仁京遷都の推進役になる。749年、生前にもかかわらず正一位左大臣に昇る。750年、朝臣姓を賜った。755年、聖武上皇への不敬との讒言により、756年、職を辞した。『万葉集』の撰者の1人ともいう。自らも入首している。74歳。
 初代橘氏長者。晩年は藤原広嗣の乱、恭仁京造営失敗、大仏造立の困難などにより、台頭した藤原仲麻呂に押された。
 諸兄は、井手(井出)の里を本拠地とし、高台に館を構えていた。付近に、橘氏氏寺の大寺、井手(井堤)寺も建立した。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『井手町の近代Ⅰと文化財』 、ウェブサイト「コトバンク」   


関連・周辺  周辺橘諸兄公旧跡・墳墓(井手町)   関連    
弥勒石仏 〒610-0302 京都府綴喜郡井手町井手 
50音索引,Japanese alphabetical order  Home   50音索引,Japanese alphabetical order  Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光