丹波国分寺跡・国分寺 (京都府亀岡市) 
ruins of Tamba-kokubun-ji Temple
丹波国分寺跡・国分寺 丹波国分寺跡・国分寺 
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山門


山門










伽藍配置図


 亀岡の田園地帯に鎮守の森がある。境内には小堂が建ち、巨木が聳えている。
 奈良時代、この地には国分寺(こくぶんじ)が置かれていた。正式には、金光明四天王護国之寺と呼ばれた。
 現在、寺名は継承され同名の国分寺が建つ。無住で、専念寺(亀岡市)が管理している。山号は護国山という。
 浄土宗、本尊は薬師如来を安置する。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 奈良時代、741年、第45代・聖武天皇の詔(みことのり)により、金光明四天王護国寺(金光明寺)、法華滅罪寺(法華寺)の建立を命じた。
 7世紀後半、諸国の国府に付属の寺院「国府寺」の建立が始まり、その頃、丹波国にも国分寺、国分尼寺が建立されたとみられている。丹波国府も付近に置かれたとみられている。
 平安時代初期から中期、塔、金堂が廃絶する。
 927年、丹波国国分寺料として稲4万束があてられた。(『延喜式』 (主税上)971年)
 平安時代中期、国分尼寺は廃絶したとみられている。
 平安時代末期、国分寺は再建されている。
 10世紀以降、律令制の衰微とともに国家の財政的な庇護を失う。
 鎌倉時代後期、金堂が焼失した。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、荒廃した。
 室町時代、天正年間(1573-1592)、明智光秀の亀山城築城の兵火により焼失している。
 江戸時代、1774年、また宝暦年間(1751-1764)、またそれより以前、現在の本堂、山門、鐘楼が護勇比丘(ごゆうびく)によって再建された。
 1785年、再建が終わる。
 近代、1928年、「丹波国分寺跡 附八幡神社跡」として国の史跡に指定されている。
 現代、1982年より、第10次の発掘調査が行われる。
 1935年、御上人林廃寺で国分尼寺の7つの礎石が発掘された。
 1972年、御上人林廃寺で発掘調査が行われる。
 1986年、国分寺跡での発掘調査が終わる。
◆仏像 本堂に平安時代後期作の木造薬師如来坐像(重文)を安置している。藤原様式(繊細優美)という。
◆建築  現在は本堂、鐘楼、山門が建てられている。いずれも江戸時代、1774年の再建による。市文化財に指定されている。
◆国分寺 奈良時代、741年、聖武天皇は国情不安鎮撫のため諸国に国分寺の建立を命じた。正式には金光明四天王護国之寺といった。国分尼寺は法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)と呼ばれた。建立された七重塔には金光明最勝王経、妙法蓮華経一部を写し、天皇真筆の金字金光明最勝王経を納めさせた。
 国分寺(僧寺)と国分尼寺が一つずつ、国府区域内か周辺に置かれた。僧寺は封50戸・水田10町の施入があり僧20人を置いた。尼寺は水田10町の施入と尼僧10人を置く。律令体制の衰微に伴い、官からの財政が断たれると多くは廃れる。中世以後、国分寺の名が宗派を変えて引き継がれるところもあった。
◆発掘調査 1982年より1986年まで10次、国分寺跡の発掘調査が行われている。これにより、創建時、それ以後の伽藍規模と配置が明らかになった。金堂、七重塔、講堂、僧房跡が確認された。奈良時代、759年創建の奈良・唐招提寺と同じ瓦の型を使った同笵瓦が見つかっている。金堂跡に2層の遺構が見つかった。創建時、奈良時代の瓦積基壇と、さらに後世、平安時代末期再建時の乱石積基壇跡とみられている。
 伽藍配置は法起寺方式であり、南より北へ南大門、中門、講堂、僧房が縦一列に並び、中門と講堂は回廊で結ばれていた。中門の北、回廊内西に金堂(基壇の高さ1.2m、東西梁行15.8m、南北奥行き11.6m)、東に塔(70m)が並んで建てられていた。講堂跡(基壇東西32.8m、南北20.9m、建物東西梁行14.9m、南北桁行26.8m)は現在の本堂付近にあった。
 東の塔跡は、現在の境内東南隅にあり、17個の礎石が見つかっている。瓦積基壇(高さ1.5m、16.4m、15.6m)の上に、10m四方の土壇がありその上に礎石が配列されていた。中央に突起(ほぞ)のある心礎(東西2.7m、南北2.5m)が置かれていた。塔の高さは50mと推定され、七重塔とも五重塔ともいう。
 金堂は創建時の瓦積基壇(東西25m)、再建時の乱石積基壇(高さ1.2m、東西19.6m、南北11.6m)が見つかっている。当初は、東西梁行15.8m、南北桁行11.6mの金堂建物があったとみられている。北辺の僧房跡(60m四方)は、現在の本堂の北に位置し、瓦積基壇上に築かれていた。
 そのほか中門(基壇東西10.5m、南北115m)、回廊(築地塀、東西220m、南北220m、その後東西は150mに縮小)、僧房(東西60m以上)、仏門の中門(推定東西10.5m、南北11m)があった。
◆国分尼寺 国分寺創建同時期に建てられたとみられる国分尼寺は、国分寺境内の西450m付近<、現在の府道405号線を隔てた地点にあったとみられている。ここには、御上人林(おしょうにんばやし)廃寺(尼寺<にじ>ヶ堂、河原林町河原尻)があった。
 境内(推定東西149.4m、東西179m)の周囲には土塁(高さ30cm、幅3m)が築かれ、南より南大門(基壇東西14.43m、南北10.8m、建物東西9.63m、南北6m)、金堂(瓦積基壇東西27m、南北18m、南北に13mの階段付)、講堂(東西21m、南北12m、南に階段付)、尼房(推定南北10m)が東大寺式に一直線上に建てられていた。寺域東北隅には隅塚(直径12m、高さ1.5m)があり、鬼門に関する施設と見られている。寺は平安時代中期に廃絶し、その後再建されることはなかった。
◆護勇比丘 江戸時代、僧・護勇比丘(ごゆうびくに)は、国分寺を再興している。現在の史跡指定地の南にあり、護勇比丘の墓(五輪塔)などが残っている。
◆樹木 境内にオハツキイチョウ(お葉つき銀杏、市指定天然記念物)といわれる雌株の巨木がある。イチョウ科、イチョウの変種で、葉の上か葉上に葯を付け、全国に20本ほどしかない。乳イチョウ(チブサイチョウ)としても知られ、枝からの突起物(気根)に触ると、母乳が良く出るようになるとの俗信がある。気根は地上茎から出た根で、呼吸と空気中への吸廃湿を行っている。気根の一部はすでに幹と一体化している。京都の自然200選、亀岡の自然100選定に選定されている。胸高幹周4.3m、樹高22m。
 クスノキ科のカゴノキは鹿子の木と書き、その名は鹿の子模様の樹皮に由来する。胸高幹周3.3m、樹高13m。
 ニレ科のムクノキは、胸高幹周6.36m、樹高25mと境内には巨木が林立している。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『新修 亀岡市史 本文編』『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『京都 神社と寺院の森』


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本堂

本堂

本堂、二重虹梁、最上部に大瓶束と左右の笈形、蟇股、蛇腹天井

鐘楼

鎮守社

石像、石塔

千手観世音

役行者

塔跡の礎石、中央に小突起がある。

塔跡の礎石、心礎、中央に突起物の凸2段のほぞ(木+内)がある。

塔跡の礎石配置図
中央の心礎の四方に4つ、その外側に12個の合計17個の礎石が置かれている。

【参照】、瓦積基壇、樫原廃寺跡

オハツキイチョウ

オハツキイチョウの気根、幹の途中から下向きに突き出している。

オハツキイチョウ

オハツキイチョウ(お葉つき銀杏、市指定天然記念物)、葉の上に葯(実)を付けている。

カゴノキ、府下三指に入る大きさという。胸高幹回3.3m、樹高13m、亀岡の名木

ムクノキ、胸高幹回り6.36m、樹高25m、亀岡の名木
 丹波国分寺跡・国分寺 京都府亀岡市千歳町国分桜久保25 
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