西運寺 (京都市伏見区) 
Saiun-ji Temple
西運寺 西運寺 
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 宇治川の北に位置する西運寺(さいうんじ)は通称を狸寺(たぬきでら)という。山号は松風山という。
 浄土宗、知恩院派の末寺。 
◆歴史年表 安土・桃山時代、1596年、雲海により、当初は宇治川対岸の向島橋詰町(伏見区)に創建された。向島藤ノ木町ともいう。
 江戸時代、1686年、5世・義雲の時、幕命により現在地の上総屋敷跡(桃山町上総町、徳川家康6男・松平上総介忠輝の屋敷という)を下付され移転する。
 江戸時代末期、文久年間(1861-1864)、30世・冠道(戴誉冠道)は、裏山の狸を餌付けする。以来、見物人が訪れるようになる。陶芸家・高橋道八は、狸の焼き物を寺に寄贈し次第に「狸寺」と呼ばれる。
 1868年、鳥羽・伏見の戦いに際して、官軍屯所になり、墓石により要塞が築かれた。
 その後、一時無住になり荒廃する。
 近代、1883年、中興の祖・寛兆は本堂を大改修し、書院を新築、庫裡を改築した。
 現代、1979年、36世・満誉の時、本堂、地蔵堂、山門が再建される。庫裏増築、参道改修なども行われた。
◆雲海 安土・桃山時代-江戸時代の浄土宗の僧・雲海(うんかい、1527-1640)。西蓮社岸誉上人順阿慈航雲海。相州小田原生まれ。俗姓は都筑。永禄年間(1558-1570)、山城に移り布教する。熊野神社を崇敬した。1590年、伏見・西岸寺の開山。1596年、伏見・西運寺を創建した。晩年は石像寺に移り中興し亡くなる。114歳。
◆狸の逸話 江戸時代末、文久年間(1861-1864)、寺の裏山に雌狸が棲み、悪さをし人々を困らせていた。30世・冠道が餌付けをして馴らし、「八」と名付けた。狸は、冠道が手を叩くと山から下りてくるようになる。以来、寺は文人、見物人で賑うようになり、「狸寺」と呼ばれた。
 龍源寺(江戸町、現在の桃山町本多上野)の西隣に住んでいた陶工・高橋道八は、狸見物に当寺を訪れた。その謝礼として、人の背丈ほどの焼物の狸像を作り門前に置いたという。以来、寺は「狸寺」の別称が定着した。像は、近代、34世・寛兆(戒誉寛兆)の頃まで現存しており、その後失われた。狸像は、工兵隊の数名により宇治川に投げ込まれたともいう。
 以後、35世・寛順(圓誉寛順)より狸の置物などの数百点の蒐集、展示が始められ、現在も続けられている。
 1868年の鳥羽・伏見の戦い後、狸は姿を見せなくなる。その後も、狸寺を訪れる人は絶えなかった。2004年頃より再び、裏山に野生の狸が見られるようになったという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都市の地名』、パンフレット「西運寺」、サイト「京都新聞 ふるさと昔語り」、『京都大知典』『京の寺 不思議見聞録』


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本堂

本堂、山号扁額「松風山」
地蔵堂
地蔵堂、世継地蔵尊

狸の置物
 西運寺 〒612-8034 京都市伏見区桃山町泰長老108    075-611-2844
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