夕顔の墓・夕顔町 (京都市下京区) 
Yugao-cho
夕顔の墓 夕顔の墓
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「源語傳説 五条辺 夕顔之墳」の石標


夕顔町の通り


 下京区、南北の通りである堺町通を挟んで夕顔町(ゆうがおちょう)という町名がある。民家の脇に、「源語傳説 五条辺 夕顔之墳(つか)」と刻まれた石標が立つ。 
 平安時代、紫式部の『源氏物語』に登場する女性・夕顔(ゆうがお)の墓がある。江戸時代の好事家が立てたものという。
◆歴史年表 平安時代、この地は平安京の条坊では左京区五条四坊二保五町にあたる。
 江戸時代、1637年刊、洛中絵図にこの地は「かしや町通ゆふがを町」と記されている。
 1641年以前、「すしや町」と記されている。(『平安城町並図』)
 1665年、「すしや町」と記され、「夕がほの町」より町名変更になったことを批判している。夕顔町の民家後ろに墓があるとしている。(『京雀』)
 延宝年間(1673-1681)末、夕顔の社(富小路五条、現在の富小路松原付近)が廃されたとみられている。墓は存続した。
 1677年、「夕顔社」の項に「富小路の西、五条坊門の南にあり、すなはち夕顔の町と名づく。」と記されている。(『出来斎京土産』)
 1685年、『源氏物語』「夕顔の宿」が、光源氏の乳母の「五条なる家」の近くとして紹介されている。(『京羽二重』)
 1705年、「上鍛冶や丁」とある。(『洛中洛外絵図』)
 1780年、夕顔墓が描かれている。(『都名所図会』
 1855年、『山州名跡志』にも記されている。
 近代、1929年、京都史蹟会により「夕顔之墳(つか)」の石標が立てられる。
◆夕顔 夕顔は、『源氏物語』第54帖「夢浮橋」巻の一、第4帖「夕顔」巻、第3帖「帚木」巻に登場する。「帚木」巻で語られた「雨夜の品定め」で、「常夏(ナデシコの古名)の女」とも呼ばれた。本人の和歌「心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花」に因み夕顔と呼ばれた。
 17歳の光源氏は、恋愛関係の六条御息所の邸に牛車で向かう途中、五条の従者・藤原惟光の母、源氏の大弐乳母の病見舞いに行く。その家の隣に粗末な民家があり、ユウガオの白い花が咲いていた。召使に一輪の花を取りにやらせると、美しい顔立ちの童女が扇の和歌で返答する。香が匂いたち源氏は女に心惹かれる。やがて、互いの素性を隠して通うようになる。
 ある日、源氏は寂れた六条の某院(なにがしのいん)に夕顔を連れ込む。深夜、源氏が寝所を離れた隙に、女の物怪(六条御息所とも)が現れ、夕顔は憑りつかれて亡くなってしまう。
 夕顔は三位中将の娘であり、頭中将(当時は少将)の側室だった。夕顔は、本妻の嫉妬を恐れ姿を消して、この地に隠れ住んでいた。この時、夕顔は19歳で、3歳になる娘(後の玉鬘)を遺す。
◆夕顔宿 『源氏物語』中で紫式部は、夕顔の宿(やどり)を五条二坊十四町(高辻西洞院西入ル)に想定した。夕顔町の西になる。
 物語の中で「そのわたり近き」の「某院(なにがしのいん)」とは、第62代・村上天皇皇子・具平親王(ともひら しんのう、964-1009)の別邸「千種殿(ちぐさどの、六条殿)」を想定したという。別邸は六条坊門小路(旧五条通、松原通)に面していた。紫式部の父・藤原為時と、親王の生母・荘子とは親戚関係にあり、為時も親王家の家令として仕えていた。
 親王には寵愛した雑仕女・大顔(おおかお)がおり、二人の間には王子も生まれた。ある時、親王に連れられて大顔は、遍照寺の畔、広沢池の月見に赴いた。大顔は、月見の最中に急死する。この実話は、宮廷社会では大評判になっていた。
 紫式部は、『源氏物語』の中で大顔を夕顔と置き換えた。遍照寺は千種殿に想定し、光源氏と夕顔の逸話として記したという。
◆墓 夕顔墓は、町屋の庭にある。上は宝篋印塔、下は五輪塔型をしている。墓は、江戸時代の好事家が立てたものという。
◆年間行事 夕顔忌(法要が執り行われている)(9月16日)。
 

*非公開
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都市の地名』『源氏物語を歩く旅』『平安京散策』『京都歴史案内』『京都の地名検証2』『京都時代MAP 平安京編』



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