京都神田明神 (京都市下京区)
Kyoto-kanda-myojin Shrine
京都神田明神 京都神田明神
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蛙は、将門の首が京から飛んで「帰った」ことにより、「帰る」に掛けられている。左遷、誘拐・行方不明の子どもが還るとの信仰もあり、蛙を奉納するという。






 京都神田明神(きょうと かんだ みょうじん)は、かつて神田神宮と称した。 
 新釜座町(しんかまんざちょう)、綾小路通から鍵上の細い路地を四条通へ抜ける途中にあり、町家の建物が社殿になっている。
 この地は、平安時代、平将門の首が晒された地とされ、祭神は平将門を祀る。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、現在地は左京五条三坊一保一町に当たり、京都市内でも最も古い町といわれている。
 940年、東国での天慶の乱の後、平将門は藤原秀郷(田原藤太)と平貞盛に討たれた。その首級は、平安京まで送られ、東の市、都大路で獄門にかけられたという。同年、武蔵国に築土神社が祀られた頃、空也は京都の首が晒された地に堂を建て、手篤く供養したという。また、石を立て印としたともいう。将門の梟首(きょうしゅ)は空也により葬られ、石塔が立てられたともいう。
 平安時代中期、太政大臣・藤原頼忠(924-989)の四条宮となる。
 中世(鎌倉時代-室町時代)以降、空也僧はこの地に道場を開き、鉢叩きの祖とさける将門を祀っていたともいう。
 その後、町家となる。
 近年まで、将門の首塚は格子内の廚子に納められ祀られていた。
 現代、2010年より、町家内に祀られている。
◆築土神社 平安時代、940年、京都に晒された平将門の首は、首桶に納められ京都から密かに持ち出されたという。また、首は3日目に夜空に舞い上がり、故郷に向かって飛び、数か所に落ちたともいう。
 首は、武蔵国豊島郡上平河村津久戸(東京都千代田区大手町周辺)の観音堂に祀られ、津久戸明神と称された。
 室町時代、1478年、武将・太田道灌(1432-1486)は、江戸城の乾(北西)の方角、田安郷(東京都千代田区九段坂上)へ社殿を移転させた。太田家の守護神として、江戸城の鎮守神として祀られ、田安明神とも呼ばれた。
  江戸時代、1616年、江戸城外堀の拡張工事により、筑土八幡神社隣地(東京都新宿区筑土八幡町)へ移転し、築土明神と呼ばれる。
 近代、1874年、天津彦火邇々杵尊を主祭神とし、築土神社に改称した。
 1945年に焼失している。その後、現在地(東京都千代田区九段)へ移転した。
◆神田神社 神田神社の祭神は、一之宮に大己貴命(おおなむちのみこと)、一ノ宮に大己貴命(オオナムチノミコト、だいこく様、二之宮に少彦名命(すくなひこなのみこと)、三之宮に平将門命が祀られている。
 創建は、奈良時代、730年という。
 鎌倉時代、嘉元年間(1303-1306)に疫病が流行し、将門の祟りであるとして供養が行われた。1309年に当社の相殿神になる。また、将門の墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、時宗の遊行僧・真教が慰霊、1309年に祀られたともいう。
 江戸時代、1616年に江戸城の表鬼門守護の地である現在地(東京都千代田区外神田)に遷座し、幕府により社殿が造営された。
 近代以降は神田神社に改称した。1874年、平将門は逆臣として祭神から外され、少彦名命が勧請された。1923年、関東大震災により焼失し、 1934年に再建されている。1945年の東京大空襲でも本殿・拝殿以外は焼失した。1984年、将門は祭神に復帰した。
◆新釜座町 新釜座町の地は、平安時代の左京五条三坊一保一町に当たる。
 平安時代中期、太政大臣・藤原頼忠(924-989)の四条宮となっている。
 空也が町の西側に道場を開き、「膏薬道場」と称したという。また、「空也供養の道場」が転訛し、「膏薬の辻子(こうやくのずし)」と呼ばれたともいう。
 近代、1869年、南北の膏薬辻子を合併し、新釜座町となった。
 祇園会では北半分は郭巨山、南半分は伯牙山の寄町となっている。
◆平将門 平安時代中期の武将・平将門(?-940)。平良将 (良持とも)の子に生まれた。摂政・藤原忠平に仕える。下総北部で勢力拡大し、一族と領地争を繰り返した。935年、武将で伯父・平国香を殺して内乱となる。939年、常陸、下野、上野の国府を制圧、常陸国司に抵抗した藤原玄明を助けた。東国に独立国を築き、下総国石井を「王城」、自らを「新皇」と称した。だが、藤原秀郷、国香の子・貞盛により討たれた。
◆空也 平安時代中期の浄土教の僧・空也(903-972)。詳細不明。第60代・醍醐天皇の第2皇子として生まれたともいう。寺を持たず常に市井にあったことから、市聖(いちのひじり)、弘也、阿弥陀聖、市上人とも呼ばれた。幼少より在家の優婆塞(うばそく)として全国を遍歴した。919年、17歳で市中の遺骸を念仏を唱えながら埋葬した。924年、尾張・国分寺で出家し沙弥空也と名乗る。播磨、奥州、四国で修行し、934年、奥羽にも布教した。938年以来、京都で念仏を広める。939年、空也堂を開く。948年、比叡山・天台座主延昌から受戒し、光勝の法名を得たが、終生空也と名乗った。951年、都に流行していた悪疫退散のために、自ら十一面観音を刻み、車に乗せ市中を曳き廻した。病人に茶を授け、歓喜踊躍の念仏踊で病魔を鎮めた。病人は平癒したという。その典茶・皇服茶(おうぶくちゃ、王服茶)は、身分の隔てなく分け与えられた。その時の踊躍は六斎念仏として今も伝わる。963年金泥『大般若経』 600巻の書写事業を完成させている。鴨川河原に一寺(のちの西光寺、六波羅蜜寺とも)を建て供養会を行う。東山の西光寺(六波羅蜜寺)で没した。墓は全国に複数ある。東山・西光寺で没した。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都 歴史案内』


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 京都神田神社 〒600-8471 京都市下京区新釜座町728,綾小路通西洞院東入る  
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