宥清寺 (京都市上京区)
Yusei-ji Temple
宥清寺 宥清寺 
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本堂








納骨堂






日蓮像



ウメ


シダレザクラ
 宥清寺(ゆうせい-じ)は、本門仏立宗の根本道場で本山となっている。山号は青柳山という。 
 本門仏立宗大本山、本尊は十界大曼荼羅。
 日蓮宗京都16本山の一つ。
◆歴史年表 鎌倉時代、1308年、日蓮の直弟・日弁(にちべん)が、藤原定家旧邸(二条西洞院、中京区)に青柳山本門寺を建立したのを前身にする。京都における日蓮門下最初の寺院になる。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により、丹波国亀山に移転する。
 安土・桃山時代、1599年、京都へ帰洛する。
 江戸時代、1694年、天台宗の宥清寺(上京区下堅町)を改め、山号を青柳山と称した。日蓮宗の妙蓮寺の末寺になる。
 1863年、日耀以後、寺は荒廃する。
 近代、1869年、日扇が入寺し、仏立講根本道場になる。
 1933年、現在地に根本道場を建て、宥清寺を移した。
 現代、1946年/1947年、本門仏立宗を創立し、大本山になる。
◆日弁 鎌倉時代中期-後期の僧・日弁(にちべん、1269-1311)。通称は越後阿闍梨、号は乗観房、越後房。駿河(静岡県)に生まれた。駿河・真言宗滝泉寺に学び、学頭になる。日蓮、日興に学び改宗した。富士郡熱原地方に日蓮の教えを広める。1279年、「熱原法難」の際は農民救出に活躍した。日蓮の滅後,祖廟輪番を務める。1289年、幕政に関わった北条久時を折伏して上行寺を創立する。1302年-延慶年間(1308-1311)、常陸(茨城県)、奥州地方に帰伏改宗の行脚に出る。1308年、宥清寺創建に際し、鎌倉時代初期の公家・歌人・藤原定家の末孫の禅僧・日寿を折伏し、定家旧邸を寺にした。1311年、陸奥伊具郡(宮城県)で法論折伏を逆怨みした暴徒により暗殺された。73歳。
 法華経行者の精神である死身弘法,折伏逆化を実践した。上総(千葉県)の鷲山(じゅせん)寺などを開く。
◆日扇 江戸時代後期-近代の日蓮宗八品派の僧・日扇(にっせん、1817-1890)。幼名は大路遷二郎(おおじ-せんじろう)、俗名は大路延禎、字は士竜。長松清風(ながまつ-せいふう)、本門仏立講開導(ほんもんぶつりゅうこうかいどう)、第一世講有(こうゆう)、号は清風(せいふう)、京都の商家に生まれた。書画・詩歌、儒学・国学に通じた。1845年、本門法華の信仰に入る。1848年、出家する。宗門に絶望し、在家信者の八品講(はっぽんこう)運動に関わる。1855年、京都で純粋在家講の本門仏立講を創設する。1856年、讃岐国(香川県)高松に招かれ宗義論争を裁き、八品講の後援者・高松藩主・兄の松平頼該(よりかね)の縁で還俗した。1857年、大津追分・八昌寺で日本初の在家仏教教団・本門仏立講(現・本門仏立宗)を創設する。また、京都で本門仏立講を開いたともいう。1864年、大津64か寺の訴えで新政府にキリシタンの容疑で取調べを受けた。1868年、切支丹の疑いで捕らえられる。1869年、北野の宥清寺を借り、仏立講根本道場にする。1872年、政府の命で「本門仏立講講旨」を制定する。再度捕らえられた。1878年、修行の行軌(ぎょうき)「妙講一座」を制定する。1883年、御牧現喜(みまき-げんき、日聞)を第2世講有として退隠した。著『日扇聖人全集』。74歳。
 現証利益(現世利益)、民衆主体の宗教実践を重視し、後の法華系新宗教に影響を与えた。
◆木像 「木造日蓮坐像」(重文)は、鎌倉時代の作で、像高47.6cm、日蓮の肖像彫刻としては最古という。非公開。
 日法が刻し、日蓮自ら開眼、日弁により上総・鷲山寺より遷されたものという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『日本の名僧』、『京都歴史案内』、『京都大事典』 、ウェブサイト「コトバンク」   


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宥清寺 〒602-8336 京都市上京区滝ケ鼻町1005-1,一条通七本松西入ル北側  075-602-8336
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