廣野了頓邸跡・将軍御成門跡・了頓図子 (京都市中京区)  
The ruins of residence of Hirono,Rryoton
廣野了頓邸跡・将軍御成門跡 廣野了頓邸跡・将軍御成門跡
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「この附近 茶人 廣野了頓邸址」の石標




「将軍御成門跡」の駒札


了頓図子町の町名
 三条衣棚通下ルに、「この附近 茶人 廣野了頓邸址(ひろの-りょうとん-ていあと)」の石標が立てられている。その南には、「将軍御成門跡」の駒札が立つ。
 付近一帯には、安土・桃山時代-江戸時代の茶人・廣野了頓の邸宅(茶亭)があった。
◆歴史年表 室町時代、室町幕府第12代将軍・足利義晴(在職:1521-1546)、室町幕府第13代征夷大将軍・義輝(在職:1546 -1565)の頃、足利家代々の従臣・廣野家はこの地を領有していた。(『雍州府志』)
 安土・桃山時代、廣野了頓は剃髪し、この地(三条通室町通西入ル了頓図子町・衣棚町)に邸宅(茶亭)を構え、茶道を広めた。(『雍州府志』)
 1594年、5月11日、徳川家康が了頓邸を訪れて遊び、公卿・山科言経、茶人・古田織部らも同席したと記されている。(『言経卿記』)
 豊臣秀吉(1536-1598)は、京都入洛の際に、伊藤家の屋敷(新町三条南)に宿泊した。秀吉は、了頓邸に近いため訪れた。了頓は茶を点じ、280石の知行をあてがわれた。
 江戸時代、了頓は徳川幕府からも知行400石を受けた。
 1637年、付近の小路は「りやうとんノ図子」と記されている。(『洛中絵図』)
 近代、明治維新前まで、六角通に面して了頓邸の表門が残り、了頓図子も存在していた。
 現代、1993年、中村基昌?により石標が立てられている。
◆廣野了頓 安土・桃山時代-江戸時代の茶人・廣野了頓(ひろの-りょうとん、?-? )。詳細不明。剃髪し、了頓と号した。三条衣棚通下ルに茶亭を構え、茶道を広めた。豊臣秀吉が、京都に入洛した際に了頓邸を訪れ、了頓は茶を点じた。後に、秀吉により280石の知行を受ける。徳川幕府より知行400石を受けた。
◆了頓邸 了頓邸(三条通室町通西入ル了頓図子町・衣棚町)は、六角通に面して南に表門(六角衣通通東側)があり、将軍御成門と称した。北には裏門があった。
 かつて付近に清水が湧き、井戸も多すった。民家の裏には「了頓井」と称する井水があった。
◆了頓図子 南北の小路は了頓図子(りょうとんづし、小路)と呼ばれた。現在も地名に残る了頓図子町も、了頓邸に由来している。
 屋敷内には南北の小路があり、了頓の意向により、南の表門から北の裏門まで一般の通り抜けを許していた。小路は室町通と新町通の間、三条通から六角通へ抜ける。衣棚通の中ほどから南の六角通に抜ける100mほどになる。夜間には通行を禁じていた。小路は明治維新前まであったという。
 小路は、了頓に因み「了頓図子(辻子)」と呼ばれた。また、南の六角通免の町が玉蔵町であり、「玉蔵辻子」の別称もあった。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献 「京都市の駒札」、『京都大事典』


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map 廣野了頓邸跡・将軍御成門跡 〒604-8204 京都市中京区了頓図子町・衣棚町,三条通室町通西入ル
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