楠部弥弌作陶地 (京都市左京区)  
Kusube Yaichi's pottery production site
楠部弥弌作陶地 楠部弥弌作陶地
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 岡崎の神宮道に面して、「楠部弥弌作陶地(くすべ-やいち-さくとう-の-ち)」の石標が立つ。
 かつてこの地には、近代陶芸運動の革新者だった陶芸家・楠部弥弌の工房があった。
◆歴史年表 近代、1938年、楠部弥弌は、岡崎円勝寺(左京区)に居を構え、工房を開く。
 現代、1965年、清水焼団地(山科区)に工房を築く。
◆楠部 弥一 近現代の陶芸家・楠部 弥一(くすべ-やいち、1897-1984)。画号は僊山。京都市の生まれ。父・楠部貿易陶器工場経営の千之助、母・とみの4男。1912年、京都市立陶磁器試験場付属伝習所に入所した。1915年、同伝習所を卒業し、陶磁青年会主催の展覧会で奨励賞を受賞する。粟田山にアトリエを借り陶芸生活に入る。1918年、粟田口の工房に移り、本格的に陶芸に取り組む。川上拙以・向井潤吉・黒田辰秋・河井寛次郎らと交友を結ぶ。1920年、八木一艸・川村喜太郎らと作陶家団「赤土」規約を発表する。大阪高島屋で赤土第1会展開催し、その後、1921年、府立京都図書館で赤土第4会を開催した。1923年、「赤土」は自然消滅する。1924年、パリ万国博覧会に作品「百仏飾壺」を出品し受賞した。民芸運動の柳宗悦を知る。1925年、柳の民芸運動に関心を持ち、民芸品を収集する。1926年、日本工芸美術展に出品し、宮内省買い上げになる。1927年、八木・川村・河合栄之助らと「耀々会」を結成した。帝展に工芸部が開設され、第8会展に入選した。1933年、第14回帝展特選を受賞し、宮内省買い上げになった。1934年、帝展無鑑査に推薦される。1935年、第1回京都市展に出品した。1937年、「彩埏」と名付けた独創的な新技法による作品を発表した。パリ万国博覧会で受賞する。1938年、岡崎円勝寺に居を構え、工房を築く。1943年、吉井勇・小野竹喬・表千家家元らと「寂中会」を設立した。1948年、京都工芸作家審議委員会を結成する。1951年、第7回日展で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。同展審査員になる。1952年、日展参事になった。1954年、日本芸術院賞を受賞した。1958年、日展評議員になる。1962年、日本芸術院会員になった。1963年、紺綬褒章を受章する。1965年、清水焼団地(山科区)に工房を築く。1968年、京都市美術館などで「楠部弥弌作陶五十周年展」を開催した。毎日新聞に「土と火にかける」を連載する。1969年、京都市文化功労者になる。日展常務理事に就任した。1972年、毎日芸術賞を受賞し、文化功労者になる。1973年、日展顧問に就任した。1975年、京都名誉市民になる。1977年、パリ装飾美術館で「日本の美彩延の至芸楠部弥弌作陶展」を開催し、絶賛を浴びた。1978年、文化勲章を受章する。1982年、社団法人日本新工芸家連盟名誉会長になる。87歳。
 「赤土社」のほか、「青陶会」、「博埴会」などを結成し、陶芸革新運動を展開した。近代陶芸確立に貢献した。
◆石標 石標「楠部弥弌作陶地」(高さ101㎝)の詳細は不明。碑文は東面に「楠部弥弌作陶之地」、西面に「福田赳夫書」とある。福田赳夫(1905-1995)は第67代総理大臣を務めている。
 
近代、1938年に楠部弥弌は現在地の岡崎円勝寺(左京区)に居を構えている。この地で、工房を開き作陶を行った。現代、1965年には清水焼団地(山科区)に工房を移している。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、ウェブサイト「陶芸のススメ」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 楠部弥弌作陶地 〒606-8344 京都市左京区岡崎円勝寺町140-4
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