高瀬川船廻し場跡 (京都市下京区)  
Site of Takase River boat turning place
高瀬川船廻し場跡 高瀬川船廻し場跡
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京都市の駒札、「紀念」の碑


「紀念」の碑


付近の高瀬川


【参照】「梅湊町」の町名(下京区)


【参照】「富浜町」(下京区)


【参照】「納屋町」の町名(下京区)


【参照】「材木町」(下京区)


【参照】「木屋町通」の通り名


【参照】「京都七条米浜郵便局」(下京区)
 五条大橋の南、高瀬川沿いに「高瀬川船廻し場跡(たかせがわ-ふなまわしば-あと)」がある。現在は、高瀬川西岸に京都市の駒札と「紀念」と刻まれた碑が立てられている。
 江戸時代-近代に、付近には運河・高瀬川のための船廻し場があったという。
◆歴史年表 江戸時代、1614年、秋、角倉了以により高瀬川が開通した。
 近代、1920年、高瀬川は運河として利用されなくなる。
 1933年、5月、菊濱学区清流会により「紀念」の碑が立てられた。
◆角倉 了以 室町時代後期-江戸時代前期の海外貿易家・豪商・土木事業家・角倉 了以(すみのくら-りょうい、1554-1614)。男性。与七、諱は光好、法号は了以。京都嵯峨生まれ。父・土豪(高利貸)・医者・吉田宗桂(そうけい)、母・中村氏の娘の長男。父は勘合貿易により薬も扱った。了以は算数・地理を学び、角倉家5代として家業を引き継ぐ。1592年、豊臣秀吉から朱印状を与えられた。1604年以降、徳川氏から朱印状を与えられた。1603年-1613年、弟・宗恂、長男・与一(素庵)らの協力により、安南国(ベトナム)トンキン(東京)との御朱印船(角倉船、400人乗り、800t)貿易により富を得る。1606年、豊臣秀吉の命により、大堰川開削(丹波-山城)を行う。保津峡に船を渡し、亀岡と京都間の木材輸送を拓いた。安南貿易により得た火薬を工事に用いたという。通舟料を得て莫大な利益を得る。1608年、幕府の命により、富士川(駿河岩淵-甲府)疏通を完成させる。同年、天竜川(遠江掛塚-信濃諏訪)開疏は失敗した。1609年以降、貿易は子・与一に譲る。1610年、方広寺大仏殿造営の材木運搬のために、鴨川開削(水路化)を行う。1611年-1614年、高瀬川(京都二条-伏見)開削を行う。二尊院の道空に師事し仏道を極めた。晩年は、大悲閣(西京区)に隠棲し、開削川の通船の便益を念じたという。
 薬物の輸入に尽力した。土木工事の技術に長けた。琵琶湖疏水(勢多-宇治)計画では、舟行、新田開発の腹案もあった。角倉家は河川通船支配権、倉庫料徴収での特許を得て有力材木商になる。京の三長者(ほかに、後藤四郎兵衛家、茶屋四郎次郎)の一人といわれた。61歳。
 墓は二尊院(右京区)にある。
◆船廻し場 高瀬川の川幅平均は4間(7.3m)と狭く、川を上ってきた船の方向転換ができなかった。このため開削以来、船の回転・待機・追い越しのために各所に「船入(ふないり)」が設けられ、小規模なものを「船廻し(ふなまわし)」といった。船廻しは、下流の農村部から運ばれた農産物の揚場にもなっていた。
 四条通より高瀬川下流に複数の船廻し場が設けられていた。その場所は、四条-五条間で北より船頭町四条下ル(下京区)、天満町高辻橋下手(下京区)、難波町の万寿寺橋下手(下京区)、六軒町下ル(下京区)、西橋詰町(下京区)などであり、さらに南の六条・七条辺にも一時的に設けられていたという。
 現在地の高瀬川船廻し場跡(下京区梅湊町)付近の川幅はかつて9mほどあり、岸は砂浜の様になっていたという。現在地の南の菊浜区民会館(下京区梅湊町)辺には回漕店があり、付近の舟繋ぎ場には何艘かの高瀬舟が繋がれていたという。付近には高瀬川に因む「木屋町通」「梅湊町(うめみなと-ちょう)」「富浜町」「納屋町」「材木町」などの通り名・町名が残され点在している。
 かつて、現在地の南東に、米の取引所(正面通木屋町東)があり、「米浜(よねはま)」と呼ばれた。この地名は京都七条米浜郵便局(下京区上三之宮町)として残されている。
◆石碑 「紀念」の石碑は、近代、1933年5月に菊濱学区清流会により立てられた。詳細不明。
◆高瀬川 江戸時代前期、1611年に、角倉了以(1554-1614)は運河の高瀬川(全長10km、幅 5.5m-7m)の開削を幕府に出願し、1614年秋頃に完成した。川の水深が浅く、船底が平らな小型川船の「高瀬舟(船)」を用いたため「高瀬川」と名付けられた。「角倉川」ともいう。京都市中の中央部を南北に流れる運河であり、大坂・伏見・京都を河川で結ぶ運送路を目的にしていた。
 運河工事は二条-五条、五条-伏見丹波橋、伏見の3区間3期により進められた。流路は、二条大橋西畔より鴨川から分水し、鴨川西岸に沿い4kmほど南流する。現在の中京区・下京区をさらに南流し、南区東九条柳下町の陶化橋(とうか-ばし)付近で鴨川に合流後、鴨川を横切る形で東山区福稲高原(ふくいね-たかはら)町付近からは再び分水し、鴨川東岸を6kmほど南流した。伏見区丹波橋に至り、町の西部を南流し、伏見区横大路下三栖(みす)東ノ口で宇治川に流入した。
 なお、高瀬川の伏見区以南を「東高瀬川」、このうち伏見区景勝(けいしょう)町で疏水と合流後は「新高瀬川」と呼ばれた。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 京都市の駒札・説明板、『京都大事典』、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 高瀬川船廻し場跡 〒600-8127 京都市下京区梅湊町(うめみなと-ちょう) 
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