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山本富士子邸跡 (京都市中京区)
Site of Yamamoto,Fujiko Residence |
山本富士子邸跡 |
山本富士子邸跡 |
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「女優 山本富士子邸跡」の石標
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寺町三条下ル西側のビル壁に埋め込まれる形で、「女優 山本富士子邸跡(じょゆう-やまもと-ふじこ-てい-あと)」の石標が立つ。
かつてこの地に、女優・山本富士子の一家が移り住んでいた。
◆歴史年表 現代、1946年、山本富士子の一家は、大阪よりこの地にあった旅館跡に移る。富士子は、京都府立第一高女(現・京都府立鴨沂高等学校)に編入した。
◆山本 富士子 近現代の俳優・山本 富士子(やまもと-ふじこ、1931-)。女性。本名は山本富士子、愛称はお富士さん。大阪府泉大津市の生まれ。父・鉄工所経営・清、母・山本勝代(大阪・船場の棉花輸入商「山重」の長女)の次女。9歳の時、母が離婚し、姉と富士子を連れて実家に戻る。水練学校、長唄、ピアノを習い、花柳禄之助には日本舞踊を習う。戦時中は大阪大空襲を体験し、和歌山に一時疎開した。1944年、大阪府立泉大津高等女学校に入学した。1945年、終戦直後に洋風の自宅が駐留軍将校宿舎として接収され、家財道具も差し押さえられる。1946年、一家で京都の旅館跡(三条寺町)に引越した。京都府立第一高等女学校(現・鴨沂[おうき]高校)の3年に編入する。1948年、母が再婚する。1949年、高校を卒業し、お茶、藤川学院で服飾デザイン、京都YMCAでは英語を学ぶ。1950年、読売新聞社主催の第1回ミス日本に選ばれた。1951年、親善使節として、準ミスらと3人で訪米し、2カ月間に12都市を訪問し各地で大歓迎を受けた。映画界からの誘いがあり周囲は反対した。姉(後に医者)から女性が職業を持つことについての助言もあり、1953年、3年経後の自由契約を条件に、大映京都撮影所の所属になる。映画「花の講道館」(監督・森一生)で長谷川一夫の相手役としてデビューした。「浅草物語」(監督・島耕二)に主演する。1954年、カラーの「金色夜叉」(監督・島)で東南アジア映画祭ゴールデン・ハーベスト賞を受賞した。1955年、泉鏡花の原作「婦系図
湯島の白梅」(監督・衣笠貞之助)で鶴田浩二らと共演し代表作になる。1956年、京女を演じた「夜の河」(監督・吉村公三郎)での演技が評価され、NHK
主演女優賞を受賞した。1957年、「夜の蝶」(監督・吉村)で京女を演じ、京マチ子と共演する。「人肌孔雀」(監督・森一生)では三役を演じ市川雷蔵と共演した。1958年、松竹の「彼岸花」(監督・小津安二郎)に出演した。大映の「白鷺」(監督・衣笠)・「彼岸花」でブルーリボン賞女優主演賞を受賞する。1559年、「いつか来た道」(監督・島耕二)では、ウィーン少年合唱団と共演した。東宝の「暗夜行路」(監督・豊田四郎)で池辺良と共演する。1960年、原作・永井荷風の「濹東綺譚」(監督・豊田)に汚れ役で主演した。「女経」第2話(監督・市川崑)の2作品でキネマ旬報賞女優賞を受賞する。1962年、ギタリスト・作曲家・古屋丈晴と結婚する。1963年、仕事と結婚の両立のため、大映に自由契約を申し出てフリー宣言した。他社出演を禁じた五社協定に反したとして大映を解雇され、仕事を干される。(「五社協定の黒い霧」)。以来、テレビ・舞台に活動の場を移した。1664年、TBS「明治の女」、大阪の新歌舞伎座公演3本立てが初舞台になる。舞台「明治の女」では松本幸四郎と共演した。フジテレビ「にごりえ」などで高視聴率をとり、ギャラクシー賞を受賞する。1965年、テレビドラマ「山本富士子アワー」で放送作家協会賞を受賞した。1967年-1968年、休演し、長男を出産する。1983年、舞台での活躍で松尾芸能大賞を受賞した。1997年、
日本映画批評家大賞ゴールデン・グローリー賞を受賞した。2001年、紫綬褒章を受章する。
映画出演は10年で103本になる。舞台「湯島の白梅」「吉野太夫の恋」などは、400回以上の上演回数を重ねた。ほか、舞台での多演作品も多く、テレビ作品にも数多く出演している。著『いのち燃やして
山本富士子』。
◆五社協定 現代、1945年の大戦後に、映画会社の日活は映画制作を再開した。日活は、先行しているほかの5映画会社(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)から監督・俳優を引き抜こうとした。
1953年に大映を主導にした五社協定審議会が開かれ、「五社協定」が調印された。映画会社同士の専属監督・俳優の引き抜き・貸し出しを禁止するものであり、日活の動きを封じる意図があった。
1954年に日活は、映画制作を再開し、自前の新人俳優の発掘に成功する。1958年には日活も協定に参加し「六社協定」になる。1961年に、新東宝が経営破綻し、再び五社協定になる。その後、テレビの普及・娯楽の多様化などが拡大する。1971年に大映も倒産したため、協定も自然消滅した。
山本富士子は、1953年に大映に入社する。1963年の契約更改の際に、山本は大映との専属契約をやめ、優先本数(他社出演は自由)契約に切り替えることになった。仕事と家庭の両立がその理由だった。その後「五社協定」により、山本は映画・舞台・テレビ出演で一時締め出される。(「五社協定の黒い霧」)。同年に、参院法務委員はこの件に関して人権問題として調査に乗り出した。
その後、山本は映画での復帰は果たさず、テレビ・舞台で数多くの作品に出演している。
❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
❊参考文献・資料 『銀幕の昭和』、『いのち燃やして 山本富士子』、『映画の黄金時代』、ウェブサイト「KINENOTE」、ウェブサイト「コトバンク」
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山本富士子邸跡 〒604-8071 京都市中京区永楽町 |
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