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京都大学文学部陳列館(文学部博物館) (京都市左京区) Exhibition Hall in the Department of Literature,Kyoto University |
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京都大学文学部陳列館 | 京都大学文学部陳列館 |
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![]() 南側 ![]() 南側、正面、ペディメント ![]() 南側、正面、キーストーン、小円窓 ![]() 南側、正面、ポーチ ![]() 南側、正面、「京都大学文学部陳列館」の銘鈑 ![]() 南側、正面、「登録有形文化財」の銘鈑 ![]() 南側、正面、ポーチ ![]() 南側、正面入口 ![]() 南側、正面、ポーチ天井 ![]() 南側、正面、ポーチ ![]() 南側、正面 ![]() 南側、正面 ![]() 南側 ![]() 南側 ![]() 北側 ![]() ![]() 北側 ![]() ![]() 北東側 |
京都大学の本部構内に、京都大学文学部陳列館(きょうとだいがく-ぶんがくぶ-ちんれつかん) が建てられている。京都帝国大学拡張期の代表的建築の一つになる。 設計は、京都帝国大学営繕の建築家・山本治兵衛、永瀬狂三らによる。 ◆歴史年表 近代、1906年、文科大学(のちの文学部)が開設された。 1914年、4月、陳列館の南半分(煉瓦造)が竣工した。(『京都大学七十年史』) 1923年、東側中央部が完成する。 1925年、東側北半が建設された。 1929年、北西部分(鉄筋コンクリート造)が完成した。 現代、1959年、2月、陳列館を「文学部博物館」と改称する。 1986年、新館が竣成した。 1997年、4月、文学部博物館(旧陳列館)は京都大学総合博物館に移管される。 1998年、9月、文学部博物館(旧陳列館)は登録有形文化財に指定される。 ◆山本 治兵衛 江戸時代後期-近代の建築家・山本 治兵衛(やまもと-じへえ、1854-1919)。男性。江戸の生まれ。工部省の建築技術者・立川知方に師事し、設計・製図を修めた。1878年、東京府庁土木課に入り、病院建築・河川開鑿工事などを手がける。1881年、東京府御用掛・土木課工事部、1883年、土木家屋橋梁掛に転任した。1884年、小笠原出張所庁舎建築工事に関わる。1885年、工部省鉄道局、鉄道局属になった。1887年、 文部省に入る。1888年、第三高等中学校に出張した。1892年、東京美術学校技手兼文部属になる。1893年、文部属専任になり、営繕掛長・久留正道のもとで勤めた。1896年、文部技手になる。1898年、京都帝国大学に出張になり、文部技師になる。1900年、新設された文部省京都出張所長になる。1905年、文部省福岡出張所長、1906年、文部省京都出張所長になった。1907年-1919年、 新設された京都帝国大学技師・初代建築部長になった。文部省京都出張所長心得を兼任した。65歳。 高等教育機関、病院の建築を多く手がける。主な関わった工事は、小笠原出張所庁舎(1884)、京都第三高等中学校(1887)、京都帝国大学(1898)、岡山・第六高等学校(1900)、金沢・第四高等学校(1900)、鹿児島第七高等学校造士館(1900)、京都帝国大学福岡医科大学(九州帝国大学、1905)、奈良女子高等師範学校本館(奈良女子大学記念館、1909)など。 ◆永瀬 狂三 近現代の建築家・建築学者・永瀬 狂三(ながせ-きょうぞう、1877- 1955)。男性。愛知県の生まれ。父・誉。1906年、東京帝国大学建築学科を卒業後、横浜・下田築造合資会社を経て、1908年、辰野・片岡設計事務所に入る。1909年、京都帝国大学建築部嘱託に入り、山本治兵衛のもとで大学施設の建築を手掛ける。1917年、京都帝国大学工学部講師になる。1919年-1929年、山本の跡を継ぎ、京都帝国大学建築部長(1920年、組織改編により営繕課長)になる。京都高等工芸学校講師になった。1929年、退職する。その後、京都帝国大学工学部、京都高等工芸学校講師になる。1935年-1945年、京都工学校(現・京都工芸繊維大学)校長になる。77歳。 京都帝国大学営繕組織で数多くの大学施設建設を手がけた。主な作品は、京都大学学生集会所、1912、現存せず) 、旧京都帝国大学寄宿舎(現・京都大学吉田寮現棟、1913) 、京都大学文学部陳列館(1914) 、京都大学旧生理学教室研究室(現・京都大学医学部推進センター、1914)、京都大学土木工学教室本部(1917)、京都大学理学部附属地球物理学研究所(1924) 、京都大学農学部附属農場園芸実験室 (1924、現存せず) 、京都大学理学部附属地球物理学研究所 (1924) 、京都大学本部本館(1925)、旧大和田銀行本店(現・ 敦賀市立博物館(1927)、愛知・崋山文庫(1934)など。 ◆建築 文学部陳列館は、京都帝国大学営繕の山本治兵衛が設計を主導したと見られている。永瀬狂三、武田五一も加わったという。 近代、1914年に当初は南半分が竣工した。予算の関係で以後3次の増築を繰り返した。完成まで15年の歳月を要している。1923年に東側中央部が完成する。1925年に東側北半が竣工した。1929年に鉄筋コンクリート造により北西部分が完成した。現代、1985年に隣接して京都大学総合博物館の建設に伴い、当館は取壊の危機があった。結果として、現在の南側正面・東側の2面のみを残して保存された。 南面している。かつて平面は「ロ」字型をしていた。現在は保存された部分を残し、「L」字型になっている。中央部と隅部にペディメント(ブロークン・ペディメント、切妻屋根の妻壁にある三角形の部分、破風)を配している。正面のペディメントには、キーストーン(要石、アーチの頂上部分にある)、楕円形のブル・アイ(小円窓)が見られる。 正面に鉄製のポーチが付けられている。外壁はモルタル目地切り仕上げになる。屋根窓、棟上には小塔がある。ネオ・バロック(19世紀後半のヨーロッパで興きた華麗・変則的な様式)、細部装飾にはセセッション的(19世紀末のドイツ・オーストリアなどで興った革新運動、分離派)な意匠がある。 施工は直営、近代、1929年は津田甚組による。煉瓦造2階建、瓦葺、現存部分の建築面積732㎡。 ◆陳列館・総合博物館 近代、1906年に「文科大学」が開設された。1914年には「陳列館」の最初の建物が竣工している。1919年2月に文科大学を「文学部」と改称している。1929年に陳列館は全館完成し、史学科学科各講座、美学美術史学の文化史関係資料が収蔵された。現代、1959年に陳列館を「文学部博物館」に改称している。 その後も博物館の狭隘化、老朽化は解消されず、1986年に新館が竣成し、一般公開を復活している。1997年4月に文学部博物館は新館に移管された。 他方、2001年6月に文学部博物館の西隣に、新たに「京都大学総合博物館」が開館した。旧来の文化史系のみならず他学部の自然史系、技術史系多分野の学術標本資料(250万点以上)も収蔵し、公開されている。 *内部は通常非公開 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「京都大学大学院文学研究科・文学部」、ウェブサイト「京都大学総合博物館」、ウェブサイト「文化庁 文化財データベース」、『近代京都の名建築』、『京都市の近代化遺産 近代建築編』、ウェブサイト「幻の建築家永瀬狂三-田原市博物館」、 ウェブサイト「京都大学」、『京都大事典』、『京都の歴史10 年表・事典』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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