進々堂京大北門前 (京都市左京区)  
Shinshindo
進々堂京大北門前 進々堂京大北門前
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南側、正面

南側


南側


南側


南側、入口


南側


南側、入口


南側


南側、1階窓


南側、1階窓台、泰山タイル貼


南側、1階


南側、1階床、泰山タイル貼




南側


南側、2階


南側、2階


南側、2階、ロンバルディア帯(ロンバルド帯)


南側、2階
 百万遍交差点の東に、進々堂京大北門前(しんしんどう-きょうだい-きたもんまえ)はある。近代の実業家・続木斉(つづき-ひとし)が、妻・ハナとともに開業した。斉は、建物設計にも加わっている。
 店はハナの没後に長男が相続し、その後、現在は孫夫妻により、別法人「京大北門前カフェ進々堂」として営業している。
◆歴史年表 近代、1913年、4月、続木斉・ハナ夫妻は、食パン製造業の「進々堂」(左京区旧三高東側)を開業する。
 1914年、火災により店舗を焼失した。二条離宮前(堀川竹屋町)に移転する。
 1915年、第123代・大正天皇御大典の祝賀会場が二条離宮にあり、進々堂は大繁盛した。
 1920年、4月、竹屋町寺町に工場(現・本社工場)が移転する。
 1924年、4月、斉はパリ・ソルボンヌ大学に留学する。日本人最初のパン留学生になる。
 1926年、斉は帰国後にフランスパンを製造、販売した。
 1930年、3月、京都帝国大学北門前に、現在の「進々堂」北白川店パン部が完成する。
 1931年、店舗の東側に増築し喫茶部が完成した。
◆続木斉 近代の実業家・続木斉(つづき-ひとし、1883-1934)。愛媛県生まれ。名字帯刀を許された庄屋・続木寅馬(とらま)の7人兄弟の3男。父の影響で、幼少期より英語、文学を好んだ。父は43歳でコレラで亡くなり、家は没落する。斉は、13歳で、岡山の味噌醤油醸造家の小僧として、住み込みで働く。7年間をこの地で過ごした。キリスト教指導者・内村鑑三の英文著作"How I Became A Christian(余は如何にして基督信徒となりし乎)"に感化された。神戸・鈴木商店に入店する。1902年、内村鑑三第3回夏季講習会で、門下生になる。牛乳配達、新聞配達人、力車夫などを行う。内村門下生・相馬愛蔵夫妻のパン屋・新宿中村屋(1901-)に住み込みで働く。夫妻は、東京帝国大学前に店を構え、一切駆引きなしの商法で経営していた。斉は、店の同僚・鹿田久次郎と出会い、2人は外国語学校の英語科に入学する。学校で、無政府主義者・大杉栄と知り合う。斉は軍地ウラと結婚し、2人の子どもを授かる。2年で結婚生活は終わり、斉が子どもを引き取る。1908年、久次郎の妹・ハナと再婚する。先妻の子2人は流行病で急死した。妻・ハナの故郷の京都に移り、大学の編集室に勤めた。1913年、夫妻は久次郎の経営するパン店を譲り受けた。屋号は「進々堂」(左京区吉田)と命名する。「前のものに向かって進む」(『新約聖書』「フィリピの信徒への手紙」第3章第13-14節)から着想を得た。1914年、工場、店舗が全焼した。堀川竹屋町に新店を構える。1915年、京都の旧皇居紫宸殿で第123代・大正天皇の即位式が挙行され、祝賀会場の二条離宮近隣にあった進々堂は奉祝を祝う客で大繁盛した。1923年、関東大震災の後に虐殺された栄の娘を店に匿っている。京都大学教授・太宰旋門によりフランス語を習得し、1924年-1926年、パリソルボンヌ大学に留学した。フランス文学、パン理論・実技を学ぶ。製パン機器のミキサー・抽出窯を日本に送る。ヨーロッパ各国を廻っている。1926年、帰国後、新聞での斬新な宣伝を行い反響があった。竹屋町直売店を工場に併設し、ドイツ式のミキサー導入により生産効率を上げた。1929年頃から、結核を患う。1930年、京都帝国大学北門前に新しく北白川店を開く。スコットランド人の医者・マンローの診察を受け、軽井沢のサナトリウムに検査入院している。52歳。
 詩作し、絵も嗜んだ。
◆続木ハナ 近現代の実業家・続木ハナ(つづき-はな、1884-1955)。旧姓は鹿田。京都の生まれ。造り酒屋(綾小路新町)の次女。1893年頃、兄・久次郎と2人で四条教会の日曜学校に通い、牧野虎次に師事した。15歳で、老舗呉服屋の御曹司に嫁ぐ。1年内で実家に戻る。1901年頃、兄に勧められ同志社女学校に入学した。バイオリンを習い、キリスト教に入信している。M・F・デントンに学ぶ。後、虎次のもとで日曜学校の教師を務めた。21歳で、兄の勧めに従い、東京・明治女学校へ転校した。この頃、続木斉と出逢う。1908年、斉と再婚し、男児を授かった。帰洛し、新烏丸丸太町下ル付近に住んだ。縫い仕事、女学校教職に就き、数学、英語を教えた。1913年、兄・久次郎のパン店を継ぎ、夫妻で「進々堂」を開店させる。1924年-1926年、夫の留学中に、店内の労使交渉を切り抜ける。1934年、夫の没後、8人の子女を育てる。ドイツの製パン機械製造ベルナー・フライデレル社のパイプ式オーブンを導入した。日本初とされ、生産合理化により売れ行きは倍増する。1943年、政府は「戦力増強企業整備基本要綱」を発表し、進々堂も他の2社と統合になる。「京都中京製パン有限会社」が設立され、社長に就任する。1945年、終戦後に企業合同を解消した。1946年、進々堂を株式会社として再出発させる。晩年、福祉事業、伝道事業などにも援助したという。70歳。
 平安朱生流家元の柳本重甫に師事した。
◆熊倉工務店 近代、1897年に熊倉工務店は、熊倉家9代・熊倉順三郎が土木建築請負業として創業した。10代・熊倉吉太良は、1894年に寺社造営の宮大工・岸田良造、母・多賀の3男として京都に生まれる。1919年に、順三郎の娘・千代と結婚し、婿養子になる。
 熊倉工務店は、1910年に京都初のRC(鉄筋コンクリート造)建物の京都市商品陳列館(設計・武田五一、構造施工指導・日比忠彦)の工事を行う。1914年に京都帝大文学部陳列館(設計・山本治兵衛、永瀬狂三)で、吉太良はトラスの入隅出隅の施工を行う。吉太良の初のコンクリート構造物との関わりになる。1922年の京都帝大建築学科本館(設計・武田五一)では、父・岸田良蔵が請負い、吉太良は鉄筋組立工事を行う。この時に、建築家・藤井厚二と出会った。1930年に関医院(設計・永瀬狂三)、1934年に山内得立邸(設計・小林正紹、現場監理・澤島英太郎)などを手掛けた。1930年の進々堂の施工にも関わっている。
◆黒田辰秋 近現代の漆芸家・木工家・黒田辰秋(くろだ-たつあき、1904-1982)。父は京都祇園の漆師屋(ぬしや)・黒田亀吉、母・まつの6男。1919年、京都第2高等小学校卒後、蒔絵師・瀬川嘯流に師事し、その後、独学で木工芸に専念する。1924年、陶芸家・河井寛次郎、楠部弥弌を知り、民芸運動に加わる。1926年、「日本民藝美術館設立趣意書」の表題を彫る。1927年、上加茂民芸協団を組織し、団長格になる。1929年、上加茂民芸協団の解散後は、心身の疲弊により一時休養する。1933年、河井らの推薦により、札幌郊外の琴似工業試験場内に木工部を設立し指導した。1934年、結婚する。1935年、志賀直哉の推薦により、大阪で初の個展を開く。1939年より2年間、朽木谷で轆轤挽を学ぶ。1944年、中国吉林郊外に陶磁器制作指導のために渡る。1954年、「日本工芸会近畿支部」創設に加わり理事に就任した。1960年、大阪の「工芸5人展(黒田、濱田、河井、棟方、芹澤)」に出品する。1964年、伝統工芸展出展「拭漆欅飾棚」が京都国立博物館買上になる。映画の黒澤明監督の依頼により、御殿場山荘の「楢家具セット」を制作する。1968年、皇居新宮殿の拭漆樟大飾棚、扉飾、椅子、卓を制作した。1970年、志賀直哉、武者小路実篤らの支持を得て、東京で個展を開いた。重要無形文化財「木工芸」保持者(人間国宝)に認定された。1971年、紫綬褒章を受章する。78歳。
 作品は素地作りからの一貫制作であり、彫刻的な曲面造形を特徴にした。指物、刳物、拭漆、溜塗、朱漆、耀貝、乾漆などの技法を駆使した。意匠には柳の指導があった。朝鮮の木工、西欧の建築、家具の意匠も参考にした。1930年、進々堂の「拭漆楢テーブルセット」、1931年、鍵善良房の飾り棚、室内装飾も手掛ける。
◆池田泰山 近現代の陶器製造業者・池田泰山(いけだ-たいざん、1891-1950)。本名は泰一。尾張知多郡に生まれた。父は庄屋・製紙業・ 鶴吉、母 ・ゆくの長男。1909年、京都市陶磁器試験場の伝習生として入所する。1911年、修了した。その後、10年余り国立大阪工業試験所窯業部技手として研究を重ねた。洋式建築陶器製造・久田吉之助の工場(愛知県常滑)でテラコッタ(素焼き陶器)の技術を学ぶ。工場閉鎖に伴い、梅原政次郎らと協同で京都に開窯(鴨川辺九条付近)した。1917年、独立し「泰山製陶所」(東九条大石橋通高瀬)を設立する。窯業技術家・藤江永孝、経営で梅原政次郎の指導・援助を受ける。美術工芸タイルの泰山モザイク、泰山タイルを創始する。1921年頃より数年間、大珠院で静養生活した。回復後、意匠 ・技術面で応用化学者・中沢岩太の指導を受ける。1939年、泰山製陶所は株式組織になる。戦時中、金属代用品、軍需用製品 などを製造した。
 当初は美術工芸品の花瓶、置物、香炉、陶額、盃、茶器などを製造していた。後に建築用装飾品として泰山式タイル、モザイク、照明、噴水、集成モザイクなどを製造する。建物に用いられたのは、秩父宮邸、那須御用邸、東京軍人会館、東京帝大医学部新館、東京帝国大学図書館、東京帝室博物館、築地などの喫茶店、満鉄、中国・牡丹江ツーリストビューロー、大阪綿業会館談話室、大阪南海高島屋新館、大阪近鉄百貨店神戸女学院、国鉄岐阜駅構内、京都では、下村正太郎氏邸(大丸ビィラ)、先斗町歌舞練場、京都市美術館、進々堂、本願寺錦華寮陶彫品などがある。
  昭和工芸協会展、京都美術工芸展、時習園展、商工省展に出品し入選 ・ 受賞した。「京都陶磁器青年会」設立に参加し、「京都陶磁器工業組合」会員で総代兼部長を務めている。
◆建築 近代、1930年3月に、北白川の京都帝国大学北門前に、現在の「進々堂」パン部が完成する。1931年に、東側の民家を入手し、増築して喫茶部が完成した。京都で初めての本格的フランス風カフェを建築し、パン食堂「ノートル・パン・コティディアン(notre pain quotidien)」と命名される。
 これは、"Donne-nous aujourd'hui notre pain quotidien(神さまどうぞわたし達に、毎日のお食事を今日もお与えください)"という祈りの言葉のから引用されている。斉が留学中のパリの学生街カルチエ・ラタン(Quartier latin)で目にした、パンを食べながら教授、学生が語らう喫茶店を再現したという。カルチエ・ラタンは、パリ市の中央部、セーヌ川南岸のラテン地区・学生街であり、ソルボンヌ大学などがある。進々堂にはその後、「京大第二教室」の呼称が生まれ、京都帝大の学生、教授らが集った。初期の頃には、滝川幸辰(1891-1962)なども通ったという。
 設計は続木斉という。増岡建築事務所が、建築家・熊倉吉太良(建築工事人は父・熊倉順三郎)と協力し設計を請け負ったともいう。斉は、吉太良の才能を見出し、吉太良も斉の店造りに共感して協力を申し出たという。斉は、タイル、木材の色目、材質などに注文をつけたという。
 南面して建つ。ロマネスク風の外観になっている。10世紀末-12世紀の西欧に広まったキリスト教美術様式であり、半円形アーチの多用が特色になる。装飾にロンバルディア帯(ロンバルド帯)を施している。これは、11世紀頃、イタリア・ロンバルディア地方で盛んに用いられた。ドイツ、フランスにも広まったロマネスク建築装飾であり、小柱列をいくつかの小アーチで連結した装飾帯を外壁に配置する。
 アーチ窓を用いている。1階部分はタイル貼り、2階はモルタル仕上げになる。窓台に「泰山製陶所」(南区)の泰山タイルを用いた。1917年に池田泰山(泰一、1891-1950)によりに設立されている。
 内装にも装飾タイルが貼られ、手洗い、カウンター両脇にも泰山タイルが用いられている。
 施工は熊倉工務店、木造2階建、瓦葺。
◆調度品 喫茶部内に、漆芸家・木工家・黒田辰秋作のナラ材の長テーブル、椅子が置かれている。
 続木斉が清水坂にあった辰秋の工房で、作品にひと目ぼれし製作依頼したという。
◆文学  「進々堂」について、宗教家、学者などが記している。
 ◈宗教家・一灯園主・西田天香(1872-1968)は進々堂のパンについて、「一口のパンにも大地と天の恩おもふ」と記している。
  ◈経済学者・社会思想家・河上肇(1879-1946)は、共産党事件で投獄されていた。「小管獄中より=一度口にしたしと思いし進々堂のパン、学生の差し入れで今日初めてありつく」とし、「ひとやにて八年まえよりききいたる進々堂のパンをけふ食む 昭和十六年十二月三十日」と詠んだ。『晩年の生活記録 上』(1958)
 ◈初期の頃の店に通っていた刑法学者・京都大学総長・滝川幸辰(1891-1962)は、「気持ちのよい店で昼飯時間によく出入りした。若夫人が美人だという評判であった。そのためばかりでもなかろうが、京大の人達の進々堂通いは大したものである。」と語っている。
  ◈小説家・森見登美彦(1979-)は、『夜は短し歩けよ乙女』(2006)で、「やがて私は喫茶『進々堂』までやってきました。緊張しながら喫茶店の硝子扉を押し開けると、別世界のように温かくて柔らかい空気が私を包み込みました。」と書いた。
◆ワーズワース 店内にイギリスのロマン派の詩人・ウイリアム・ワーズワース(William Wordsworth,1770-1850)の短詩 "The Rainbow(虹)" の一部を刻んだ額が掲げられている。1802年に作詩され、1807年に発表された。
 My heart leaps up when I behold
 A rainbow in the sky :
 So was it when my life began,
 So is it now I am a man
 So be it when I shall grow old
  Or let me die!
 実際には9行あり、次の3行が続いている。
 The Child is father of the Man :
 And I could wish my days to be
 Bound each to each by natural piety.
◆アニメ アニメーション『夜は短し歩けよ乙女』(原作・森見登美彦、監督・湯浅政明、制作・サイエンスSARU、2017年4月)の舞台になった。進々堂は、「先輩」が思いを寄せる「黒髪の乙女」との初の待ち合わせ場所として登場する。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 ウェブサイト「進々堂」、『京都大事典』、『京都の洋館』、ウェブサイト「パン食普及協議会-パンの明治百年史」、ウェブサイト「福山大学学術情報リポジトリ 藤井厚二研究 藤井厚二の経歴と人脈」、ウェブサイト「泰山製陶所の転用技術 - 京都精華大学」、ウェブサイト「国立国会図書館レファレンス協同データベース」、ウェブサイト「泰山タイルとは 」、ウェブサイト「コトバンク」


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