藤本鉄石寓居跡 (京都市中京区)  
The ruins of temporary residence of Fujimoto, Tesseki
藤本鉄石寓居跡 藤本鉄石寓居跡
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「藤本鐡石寓之居址」の石標

 御幸町通三条上る東側に「藤本鉄石寓之居址(ふじもと てっせき ぐうきょ の あと)」の石標が立てられいる。
 この地には、江戸時代後期の尊攘派志士・藤本鉄石が一時住んだという。鉄石は、天誅組総裁の一人だった。
◆歴史年表 江戸時代後期、この地に藤本鉄石(1816-1863)の寓居があったという。
 近代、1928年、京都市教育会により石標が立てられた。
◆藤本鉄石 江戸時代後期の岡山藩士・尊攘派志士・藤本鉄石(ふじもと てっせき、1816-1863)。備前国の片山佐吉の4子。母は佐幾。岡山藩士・叔父・藤本彦右衛門重賢の養子。同藩農事掛(用水番)の手代役を勤める。1840年、養父の死後、脱藩し京都に上がる。その後、東北、江戸、中国、九州地方を遊歴した。1854年、伏見奉行・内藤正縄に招かれる。私塾「言志塾」で学問、兵法を教えた。1858年、大老・井伊直弼の安政五ヵ国条約調印、和宮降嫁を憤り、尊攘論を主張した。1862年、島津久光の率兵上洛を機に挙兵を画策し、捕らえられ大坂・薩摩藩邸に軟禁された。1863年、土佐・吉村寅太郎、三河・松本奎堂(けいどう、謙三郎)らと天誅組総裁の一人になる。公家・中山忠光を擁し、天皇の大和行幸の先駆けとして五条代官所を襲撃した。八月十八日の政変後、幕府は和歌山、津、郡山諸藩に討伐を命じた。十津川郷士らと大和各地を転戦、その後十津川郷士離反される。奈良・鷲家口(わしかぐち)で和歌山藩兵に攻められ戦死した。(天誅組大和挙兵、大和五条の変)
 和歌、漢詩、書画に優れ、兵法では甲州流、長沼流の免許を取得した。著『日鑑』。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献 『新選組と幕末の京都』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 藤本鉄石寓居跡 〒604-8086 京都市中京区丸屋町322,御幸町通三条上ル東側
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