梅田雲浜邸跡 (京都市中京区)  
Ruins of Umeda,Unpin Residence
梅田雲浜邸跡 梅田雲浜邸跡
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 烏丸通御池上ル東側に「梅田雲濱邸址(うめだ-うんぴん-ていあと)」の石標が立つ。
 この地には、江戸時代後期の尊攘派志士・梅田雲浜の邸宅があった。雲浜は、安政の大獄で逮捕第一号になっている。
◆歴史年表 江戸時代後期、1843年、梅田雲浜は上京した。
 1852年、雲浜は、烏丸御池上ルに邸宅を建てる。
 1858年、安政の大獄により雲浜は、邸宅で伏見奉行所・内藤豊後守の配下に捕縛された。
 近代、1916年、京都市教育会が石標を立てる。
◆梅田雲浜
 江戸時代後期の尊攘派志士・・儒学者・梅田雲浜(うめだ-うんぴん、1815-1859)。父は小浜藩士・矢部義比、母は武川又兵衛の娘。若狭小浜藩藩士。16歳で江戸の儒者・山口菅山に学ぶ。闇斎の提唱した朱子学・崎門学を修めた。帰京し祖父の梅田姓を名乗る。近江国大津の上原立斎に学ぶ。その娘・信子と結婚した。「湖南塾」を開く。1843年、京都に出て、小浜藩塾・「望楠軒(ほうなんけん/ぼうなんけん)」(木屋町二条)に通う。望楠軒の講主になる。一時、高雄村の古寺に移る。1852年、雲浜の海防の建言に、藩主・酒井忠義は士籍剥奪し、雲浜は浪人になった。葉山馬頭観音堂の堂守になる。四条大雲院に移る。長州藩物産御用掛になり、烏丸御池上ルに邸宅を建てた。1853年、ペリー来航後、江戸で吉田松陰らと対策を論じ、水戸へも遊説した。京都の梁川星巌、頼三樹三郎らと交わる。大坂湾に現れたロシア軍艦攻撃などを企てた。1855年、妻・信子が亡くなる。1855年、子・繁太郎が亡くなる。後妻・村島内蔵の娘・千代を後妻に迎える。1856年、長門、対馬に遊説し吉田松陰に会う。1858年、星巌と日米通商条約調印反対、将軍継嗣では一橋慶喜を擁立し、大老・井伊直弼の排斥などを青蓮院宮に入説した。「反逆(悪謀)の四天王」とされ、幕政批判により、1858-1859年、安政の大獄で逮捕第一号になる。烏丸御池上ルの家で伏見奉行所に捕縛される。江戸・小笠原忠嘉邸に預け置かれ、病没した。45歳。
 墓は安祥院(東山区)にある。元服時の前髪が納められた。遺骸は江戸・海禅寺に埋葬された。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』、『京都大事典』、『新選組と幕末の京都』、ウェブサイト「コトバンク」


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京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 梅田雲浜邸跡 〒604-0845 京都市中京区二条殿町 
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