|
|
吉村寅太郎寓居跡 (京都市中京区)
Site of Yoshimura,Torataro Temporary Residence |
吉村寅太郎寓居跡 |
吉村寅太郎寓居跡 |
 |
 |
 |
木屋町通三条上ル東側に「吉村寅太郎寓居址(よしむら-とらたろう-ぐうきょ- の-あと)」の石標が立てられている。
この付近に、江戸時代後期の急進的尊攘志士・吉村寅太郎の京都滞在時の住まいがあった。
◆歴史年表 江戸時代後期、1862年、3月、吉村寅太郎は脱藩し、上洛後に現在地に住む。4月、寺田屋事件に連座し捕らえられた。土佐に送還入獄された。
1863年、8月、寅太郎は再度上京する。天誅組を組織した。9月27日(新暦11月8日)、鷲家口(わしかぐち)の戦いで戦死自刃した。
近代、1928年、京都市教育会により石標が立てられる。
◆吉村寅太郎 江戸時代後期の急進的尊攘志士・吉村寅太郎(よしむら-とらたろう、1837-1863)。虎太郎(とらたろう)。父は土佐の庄屋・重雄の長男、母は雪。1857年、津野山郷大庄屋になる。土佐藩士・間崎哲馬らに師事した。その後、1861年、土佐藩士・武市瑞山の勤王党に加わる。1862年、長州、筑前の政情を視察した。瑞山に決起を促したが容れられず、3月、脱藩した。4月、寺田屋事件に連座し捕らえられ、土佐に送還入獄された。無罪放免される。1863年、出獄後、8月、上京して岡山の藤本鉄石、三河の松本奎堂らと急進派の公家・中山忠光を擁し、「天誅組」40人(39人とも)を組織する。大和五条の変で、討幕攘夷のために挙兵し、代官所を襲い占領した。八月十八日の政変後、事態急変し討伐され、諸藩連合軍に包囲された。9月27日、東吉野の鷲家口(わしかぐち)の戦いで戦死、自刃した。27歳。
*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、『京都大事典』、『新選組と幕末の京都』、ウェブサイト「コトバンク」
 |
|
吉村寅太郎寓居跡 〒604-8001 京都市中京区上大阪町530-1,木屋町通三条上ル東側 |
|
 |
 |
© 2006- Kyotofukoh,京都風光 |
|
|