武市瑞山寓居跡 (京都市中京区)  
The ruins of temporary residence of Takechi, Zuizan
武市瑞山寓居跡 武市瑞山寓居跡
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「武市瑞山先生寓居跡」の石標(左)


「武市半平太(月形半平太)」とある。
 木屋町通三条上る東側に「武市瑞山先生寓居跡(たけち ずいざん せんせい ぐうきょのあと)」の石標か立てられている。
 この地には、江戸時代後期に、尊攘派志士・武市瑞山の京都滞在時の居宅があった。
◆歴史年表 江戸時代後期、1862年、武市瑞山は、16代藩主・山内豊範に従って上洛した。この地に住み応接役として各藩士と交わる。
 1863年、瑞山は、京都留守居役になる。八月十八日の政変以後、尊王攘夷派は弾圧された。瑞山は、土佐に帰国後、9月、投獄された。
◆武市瑞山 江戸時代後期の尊攘派志士・武市瑞山(たけち ずいざん、1829-1865)。通称は半平太(はんぺいた)。土佐国の郷士・武市半右衛門正恒の長男。土佐高知藩郷士。剣術家で知られ、1850年、高知城下で剣術の道場を開く。1854年、叔父・島村寿之助と槍剣道場を開業した。1856年、江戸に出て尊王派志士と交わる。剣術家・桃井春蔵に入門、塾頭を務める。帰国後、土佐藩剣術指南になる。1860年、門弟を従え北九州地方を巡遊した。1861年、江戸に上る。大石弥太郎、島村衛吉、池内蔵太、河野敏鎌、久坂玄瑞らと江戸滞在中の有志を集め、土佐勤王党を結成した。帰国し、200人を結集する。15代藩主・山内容堂(豊信)の信任する藩主流の参政・吉田東洋と対立した。東洋は公武合体論を主張していた。1862年、門閥派と結託し、勤王党員が東洋を暗殺した。藩論は尊攘論に変わり、16代藩主・山内豊範の上京に同志と従う。尊攘派公家と調停工作を行う。攘夷の副勅使・姉小路公知の雑掌として江戸に下向する。1863年、八月十八日の政変後、藩命により帰国した。藩論は保守化し公武合体に傾く。前藩主・豊信は尊攘派を弾圧し瑞山は投獄された。1865年、獄中で切腹を命じられる。37歳。
 土佐四天王(ほかに坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎)の一人。和漢、書画に秀でた。
◆寓居跡 この地には、四国屋の離れ座敷「丹虎(たんとら)」があった。
 江戸時代、1862年に武市瑞山は上京し住んだ。1863年には京都留守居役になっている。だか、八月十八日の政変以後、藩命により土佐に帰国されられる。投獄後、獄中で切腹になる。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都大事典』、『新選組と幕末の京都』、ウェブサイト「京都市 京都のいしぶみデータベース」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 武市瑞山寓居跡 〒604-8001 京都市中京区上大阪町528,木屋町通三条上ル東側
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