田能村直入旧宅(画神堂)跡 (京都市左京区)  
The former residence of Tanomura, Chokunyu
田能村直入旧宅(画神堂)跡 田能村直入旧宅(画神堂)跡
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画神堂跡

玄関

母屋


書庫
 左京区若王子に江戸時代後期-近代の日本画家・田能村直入(たのむら ちょくにゅう)の旧宅跡、私塾の南画学校「画神堂(がしんどう)」跡がある。
◆歴史年表 近代、1868年、田能村直入は京都に移る。
 1891年、当初の自宅(上京区寺町通荒神口上ル)に南宗画学校を開く。その後、東桜町に移る。
 1902年、現在地(左京区鹿ヶ谷)に移る。私塾は「画神堂」と名付けた。
 1907年、1月、直入は現在地で亡くなった。
◆田能村直入 江戸時代後期-近代の日本画家・田能村直入(たのむら ちょくにゅう、1814-1907)。三宮癡(ち)。豊後国竹田の庄屋の生まれ。角田九華(つのだ きゅうか)に朱子学を学ぶ。9歳の時、南画家・田能村竹田(ちくでん)に入門し、南画、唐詩選、国学、陽明学、武術なども学び、後に養子になり田能村姓を継ぐ。1835年、竹田没後、1839年、郷里を出た。堺、大坂の篠崎小竹(しのざき しょうちく)に学ぶ。1868年、京都に移り、名を小虎、号を直入に改めた。1878年、公立の美術学校設立建議書を府庁に提出する。1880年、京都府画学校(四宗画学校)が設立された。1881年、同学校の初代摂理(校長)・画学講談担当になった。1884年(1883年とも)、辞した。1891年、自宅に南宗画学校を開く。1896年、富岡鉄斎、谷口靄山(あいざん)らと日本南画協会を創立した。1907年、自宅で亡くなる。94歳。
 近代の南画の中心的人物だった。博覧会、絵画共進会の審査員を務めた。作品「雪中山水図」「名花十二客」など。
 墓は吉田神葬墓地(左京区吉田)にある。
◆建築 門、母屋、書庫、茶室などが残る。
  ◈「母屋」は二階建になる。
  ◈「書庫」は、二階建、土蔵造になる。
◆文化財 母屋の玄関楣上に皇族・久邇宮(くにのみや)朝彦親王(1824-1891)筆という「画神堂」が掲げられている。


*非公開。
*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『京都大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 田能村直入旧宅(画神堂)跡 〒606-8444 京都市左京区若王子町
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