
「大悲山西光寺」の石標

庫裡

延命地蔵大菩薩、天道大日如来

延命地蔵大菩薩、天道大日如来

空也堂跡、廟

空也堂跡、廟

「空也上人遊行之碑」

三重塔 |
清水坂の途中にある西光寺(さいこう-じ)は、空也ゆかりの寺とされている。大悲山空也院と号する。
浄土宗、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
平安時代、950年、空也が創建したという。空也寺(くうやじ)と称し、東野村(山科区東野門口町)の真光寺の南付近にあった。当初は天台宗だった。仏殿に本尊の阿弥陀仏、脇士に観音菩薩、勢至観音、空也上人像、空也の遺骨を納めたという墓、石碑などがあった。(『山城名跡志』)
972年、空也は旧地で亡くなったという。(『雍州府志』)
鎌倉時代、建永年間(1206-1207)、勢観房源智が再興し、浄土宗になる。
中世(鎌倉時代-室町時代)、以降、荒廃した。
近世(安土・桃山時代-江戸時代)、初期まで、荒廃する。(『宇治郡名勝志』)
江戸時代初期、「高野寺」と記されている。(「古図」)
1682年、大雲院の前住9世・光誉(高誉)性愚が三興した。(『山城名跡志』『山城名跡巡行志』『雍州府志』)
1683年、空也塔(空也上人遊行之碑)が再建された。(石碑の碑文)
1749年、現在地に移る。
1754年、「空也寺」として記されている。(『山州名跡巡行志』)
◆空也 平安時代中期の浄土教の僧・空也(くうや/こうや、903-972)。男性。こうや上人、弘也(こうや)、光勝、寺を持たず常に市井にあったことから市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖。父・第60代・醍醐天皇の第2皇子、第54代・仁明天皇皇子・常康親王ともいう。幼少より在家の優婆塞(うばそく)として全国を遍歴した。919年、17歳で市中の遺骸を念仏を唱えながら埋葬した。924年、尾張・国分寺で出家し、沙弥空也と名乗る。播磨、奥州、四国で修行し、934年、奥羽にも布教した。938年以来/天慶年間(938-947)、京都で念仏を広める。乞食、布施を得て貧者・病人に施した。939年、空也堂を開く。948年、比叡山・天台座主延昌から受戒し、光勝の法名を得る。終生、沙弥名の空也を名乗った。950年、浄財を集めて、金色1丈の十一面観音像、6尺の梵天・帝釈・四天王の像を造立した。951年、都に流行していた悪疫退散のために、自ら十一面観音を刻み、車に乗せ市中を曳き廻した。病人に茶を授け、歓喜踊躍の念仏踊で病魔を鎮めた。病人は平癒したという。その典茶・皇服茶(おうぶくちゃ、王服茶)は、身分の隔てなく分け与えられた。その時の踊躍は、六斎念仏として今も伝わる。963年/応和年間(961-964)、13年かけて金泥『大般若経』600巻の書写事業を完成させた。鴨川河原に宝塔/一寺(のちの西光寺、六波羅蜜寺)を建て盛大な供養会を行う。東山の西光寺(六波羅蜜寺)で没した。70歳。墓は全国に複数ある。
空也念仏の祖。諸国を巡歴し南無阿弥陀仏の名号を唱えた。各地で橋を架け、道路、感染防止のため井戸(阿弥陀井)の整備、遺棄された骸を火葬し荼毘(だび)に伏すなどの社会事業も行った。空也の菩薩行は行基につながる。称名念仏により、既存の国家、権勢、知識層の仏教から庶民の仏教を唱えた。後の法然、親鸞の専修念仏に影響を与える。一遍は空也を崇敬した。
◆源智 鎌倉時代前期の浄土宗の僧・源智(げんち、1183-1239)。男性。妙法院法印、号は勢観房(せいかんぼう)。父・武将・平師盛(もろもり)(平清盛の5男)、母・秘妙。1185年、平家滅亡後、源氏の探索から逃れ、母・秘妙は密かに源智を法然の弟子・真観房感西に託した。1195年、13歳で法然の門に入り、円頓戒を受けた。源智は終生身分を隠し、感西、法然両師に仕えたという。後に慈円により出家する。その後、18年間、法然に近侍し、本尊、大谷の坊舎、円頓戒の道具などを譲り受ける。1212年、法然の臨終の際に、法然が書いた遺訓『一枚起請文(きしょうもん)』を授けられた。同年、法然没後、勧進し阿弥陀仏像を造立した。胎内に源智自筆の願文、4万数千人の結縁者交名(けちえんしゃ-きょうみょう)を納めた。(滋賀・玉桂寺)。その後、賀茂社の傍ら神宮寺・功徳院(知恩寺の基)に住し、隠遁生活を送る。念仏衆の紫野門徒を擁していた。1234年、東山大谷の法然廟を修理し、知恩院の基を築く。著『選択(せんちゃく)要決』、醍醐寺本『法然上人伝記』。56歳。
建永年間(1206-1207)、西光寺を再興し、浄土宗に改めた。
墓は百万遍知恩寺(左京区)にある。
◆光誉 性愚 江戸時代前期の浄土宗の僧・光誉 性愚(こうよ-しょうぐ、?-?)。詳細不明。男性。高誉。大雲院の前住9世。1682年、西光寺を三興した。
奈良・當麻寺に伝わる浄土変相図「綴織當麻曼荼羅(つづれおり-たいま-まんだら)」(8世紀)(国宝)の保存状態を嘆く。天皇の筆を得て、10年をかけ修理・精密な写し「貞享(じょうきょう)本」(重文)の製作を完成させた。
◆仏像・木像 庫裏に本尊・阿弥陀如来像、空也上人像を安置する。
◆建築 かつて、本堂、廟堂(空也堂)があり、石櫃に空也の遺骨を納めていたという。
現在は、庫裏のみが残る。
◆文化財 空也自筆の「六字名号」、鐘鼓、杖などがあったという。
◆石碑 境内に「空也上人遊行之碑」が立つ。江戸時代前期、1683年に立てられた。撰文は黄檗僧・高泉和尚(高泉性潡、こうせん-しょうとん、1633-1695)、銘は医者・歴史家・黒川道祐(くろかわ-どうゆう、1623-1691)による。寺がかつて山科区東野村にあり、空也は旧地で亡くなった。高誉性愚により空也塔が再建されたとある。
◆墓 空也堂跡に空也上人廟がある。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都大事典』、『昭和京都名所図会 1 洛東 上』、『山科の歴史を歩く』、ウェブサイト「コトバンク」
 |