超勝院 (京都市上京区)
Chosho-in Temple
超勝院  超勝院
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 超勝院(ちょうしょういん)は、山号を独妙山大谷寺という。 
 浄土宗知恩院派、本尊は、阿弥陀如来を安置する。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1587年、豊臣秀吉の命により、土地(1250坪)を与えられ、創建されたという。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、尊蓮社体誉玄公により建立される。(『蓮門精舎旧詞』)
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、四十八願寺の第11願所となる。
 1788年、天明の大火により類焼する。(『翁草』)
 1793年、12世・弁誉が再建した。
◆惟喬親王 平安時代前期の皇族・惟喬親王(これたか-しんのう、844-897)。惟高、法名は素覚、通称は小野宮、小野宮、水無瀬宮(みなせぐう)。第55代・文徳天皇の第1皇子、母は紀名虎の娘・静子。850年、右大臣・藤原良房の娘・明子との間に第4皇子惟仁親王が生まれ、惟仁親王(第56代・清和天皇)が皇太子となった。先例のない皇位継承は、文徳天皇の良房への気兼ねと、惟喬親王の母が藤原一門ではなく紀氏の出自だったためともいう。皇位を失った惟喬親王は、858年、大宰師、弾正尹、常陸太守、872年、上野太守などの役職を歴任した。872年、病となり出家、素覚と号し洛北小野に隠棲した。惟仁親王立太子の際に出家したともいう。岩屋山金峯寺に宮を建て住んだともいう。耕雲入道と名乗り、宮を耕雲寺(高雲禅寺)としたともいう。在原業平、紀有常らも親王の元を訪れたという。その後、病に倒れる。死期迫り、御所の川上の地を避け、さらに北にある小野・大森の地へ移り亡くなったという。54歳。
 親王は、各地で木地師の祖との伝承が残っている。
◆中将姫 奈良時代の伝説上の人物・中将姫(ちゅう-じょうひめ、747-775)。藤原鎌足の曾孫、父は右大臣・藤原豊成、母は紫の前(品沢親王の娘)。幼くして母が亡くなり、父は橘諸房の娘・照夜の前を後妻にする。姫は美貌と才に恵まれ、9 歳で第46代・孝謙天皇に召し出され、琴を奏し賞賛を受ける。だが、継母に疎まれる。13歳で三位中将の位を持つ内侍となる。継母は家臣に姫の殺害を命じた。姫は命乞いをせず読経を続けたため、家臣は雲雀山の青蓮寺 (宇陀市)へ隠す。豊成により連れ戻され、1000巻の写経を成す。763年、16歳の時、第47代・淳仁天皇よりの後宮へ入るように望まれるが辞す。当麻寺で尼となり、法如と称した。26歳で長谷観音のお告げにより、一夜で蓮糸による当麻曼荼羅(観無量寿経の曼荼羅)を織ったという。亡くなった時、来迎により生きたまま西方極楽浄土へ向かったという。28歳。 
 中将姫の伝承は、平安時代の長和・寛仁年間(1012-1021)より伝えられ、戯曲の題材になった。
◆仏像 本尊の「阿弥陀如来」は、役行者の作によるという。3尺2寸(97㎝)ある。中将姫の念持仏であり、雲雀山(ひばりやま、大和と紀伊の国境)の草庵にあったという。(『拾遺都名所図会』)
◆庭 方丈前庭は枯山水式庭園になる。
◆四十八願寺 中世末(室町時代)-江戸時代、四十八願寺は、浄土宗の念仏系、鎮西、西山派の寺院の48寺で巡礼が行われていた。江戸時代に盛んになる。
 名の由来は阿弥陀如来が、一切衆生の救済のためにたてた48の誓願に因む。第1願の聖徳寺(綾小路大宮)より第48願の誓願寺(寺町三条)まで巡った。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都大事典』、『京都歴史案内』 、ウェブサイト「コトバンク」


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map 超勝院 〒602-0083 京都市上京区新ン町,大宮通寺之内上ル4丁目東入ル南側   
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